栞さん

僕は渉。31歳である。近頃、アルバムの整理をしている時に、興味深いものを見つけた。それは一枚の写真だった。
僕の事を抱っこしている、30歳くらいの女性。優しそうで、丸眼鏡をかけている。その女性が気になって、僕は母親に聞いてみた。「母さん、この人は誰?」
そしたら、母親は困惑した顔をして、「栞ちゃん?」
と答えた。
 
栞さんは、母親の友達だったらしいのだが、写真を撮ってから、そんなに月日が経たないうちに、喧嘩別れをしたらしい。
何でも、栞さんは、結婚を間近に控えていたらしいのだが、彼が栞さんを裏切って、別の人と結婚してしまったらしい。それで、母親も懸命に彼女を励ましていたらしいのだが、彼女が少し、精神的に不安定になってしまったようだ。
ネガティブな発言を繰り返す栞さんに、母親もとうとう我慢が効かなくなって、ついつい彼女を怒ってしまったらしい。
 
栞さんはそれにショックを受けて、母親と会わなくなってしまったみたいだ。
実家に引きこもってしまった栞さん。母親はほどなくして、父親の転勤をきっかけに家族で引越しをした。それで、栞さんとは音信不通になってしまったらしい。
風のうわさによると、栞さんは、海の近くに引っ越して、そこでゆっくり過ごすようになったという。母親が58歳で、同級生らしいので、栞さんも58歳。
 
僕は栞さんに会ってみたくなった。彼女は今でも、海の近くで暮らしているのだろうか。
母親に聞いてみると、彼女の本名は、神谷栞というらしい。今は瀬戸内海の近くで暮らしているんじゃないかとのことだった。
 
瀬戸内海と言えば、ミカンなどが有名だ。栞さんは、ミカン畑でもしているのだろうか。
丸眼鏡で、ミカンをほおばる姿を想像すると、なんだか微笑ましくなってきた。
写真のこの、小さな男の子が、こんなに大きくなりましたと報告していることを想像すると、なんだか笑えてきた。
 
母親は、栞さんとは、年賀状だけのやり取りであるらしい。でも、栞さんの住所は分かった。
栞さんは今、香川県の高松市にいるらしい。
ちょうど、シルバーウィークが半月後にある。僕はその休みを利用して、高松まで行ってみることにした。
 
高松までは、飛行機で行く方法と、新幹線で行く方法がある。僕は、飛行機で行くより大分安い、新幹線で行く方法を選んだ。
まず、東京駅まで出る。その後、東海道新幹線に乗り、岡山まで。岡山から、マリンライナーというローカル線に乗り、高松に着く。
僕は、東海道新幹線に乗っている間、富士山などを見て楽しんだ。のぞみに乗っても、3時間近くかかるので、本を読んだり、ちょっと寝たり。
東京駅で買った、幕の内弁当も、気持ちを盛り上げてくれた。
 
岡山駅に着くと、何やら田舎の感じが伝わってきた。東京ほど、おしゃれな人はあまりいない。でも、田舎独特の、温かみのようなものが伝わってきて、僕は好感を持てた。
そこから、マリンライナーで、高松へ向かう。東京の中央線とかとは違い、駅と駅の間隔が長いことに驚いた。東京では、5分くらいあれば、次の駅に着くのに、岡山から香川の間は、10分くらいはある。一駅で降りる人も、そんなに多くはない。
 
50分くらい、マリンライナーに揺られて、高松駅に着いた。シルバーウィークということもあり、夏の暑さはだいぶ和らいできていた。香川県の県庁所在地ということもあり、そんなに田舎のような感じはしない。僕は、香川県の名物である、うどんを食べたいと思った。もちろん、新幹線の中で弁当を食べたので、すぐにうどんを食べるわけではない。美味しそうなうどんの店を探しつつ、僕は栞さんの家に向かうことにした。
 
高松駅でタクシーを拾い、住所を運転手に伝える。運転手は、その住所をカーナビに登録する。昔は、運転手さんは大体、場所を言うと、あそこですよねと覚えていたものだ。カーナビで調べるとは、時代も変わったものだなと思った。
瀬戸内海を横手に見ながら、タクシーは走る。途中、ミカン畑のようなところもたくさん見られた。僕の気持ちは高揚していた。
 
目的地についた。ミカン畑も近くにある、瀬戸内海の海の匂いもする、素敵な場所だった。僕は、栞さんに事前に行きますよとアポを取っていたわけではなかったので、栞さんが会ってくれるかどうか、心配だった。もちろん、どこかに出かけている可能性だってある。
 
栞さんの家は、田舎らしく、東京よりも庭の広い、大きな古民家だった。僕は意を決して、インターホンを押した。
ピンポーン。中で、人の動く気配があった。はいはーい、と声がする。それなりに年のいった、女の人の声のように聞こえた。
 
ドアが開いた。少し、白髪交じりではあったが、優しそうな女の人が出てきた。出てきた時、怪訝そうな顔になる。
「どなたですか?」
僕は、予想していた反応だったので、驚かなかった。母の名前をいう。
「葛西春香という人をご存じですか?僕は、その息子の、渉と言います。」
 
栞さんの顔が、驚いた顔になり、
「渉ちゃん?立派になったわね・・。」
そして、栞さんは、
「どうぞ、入って。今日は、東京からいらしたの?」
と、聞いてきた。
 
僕は、はいと答え、写真を渡した。
「あの、この写真を覚えていますか?」
栞さんは、じっと写真を見ていたが、うんうんと頷いた。
「もちろん、覚えてる。渉君が、2,3歳の時の写真よね。」
で、栞さんは、少し涙を流した。
「春香さんには、すごい良くしてもらったのに、あんなことになっちゃって・・。」
 
僕は、事情を聞いていたので、はいと頷き、
「婚約相手と、うまくいかなくなってしまったんですよね?」
と答えた。栞さんは、うんと頷き、
「知ってたのね。あの時は本当につらかったわ・・。」
で、栞さんは、少しずつ、過去を話し出した。
 
「こんなこと、渉君に言ってもしょうがないとは思うんだけど、私の婚約相手は、私が25歳の時に出会った人なの。私はある会社で事務職をしていて、彼は営業部にいたわ。けっこう優秀な人で、よく、営業部ではエース扱いされているのを見たわね。」
栞さんは続ける。
「私と言えば、冴えない感じだったと思うわ。仕事は人並みにこなしてはいたものの、飲み会なんかにもあまり参加せず、5時に退社して、そのまま帰るような生活。彼の事は、知ってはいたけど、自分とは縁のない人だと思っていた。」
栞さんはさらに続けた。
「でも、ある時、彼の方から声をかけてきたの。書類のことで、少し私がへまをして、彼が近寄ってきたのよ。『栞さん、ここの書類、間違ってるよ。』私は、自分の名前を覚えてもらっていたことにびっくりして、『はあ・・、すいません。』と答えるばかりだったわ。で、書類の不備を直して、彼に渡すと、『サンキュ。』って言って、そのまま自分の仕事に戻っていってしまった。」
栞さんは、鼻をかんだ。そして続ける。
「もう、縁がない人だろうなと思って、いつもの通り、5時に家に帰ろうとしたのよ。そしたら、彼が走ってきた。『いつも、5時に帰ってるよね。つまらないでしょ。今日、ご飯でも行かない?』私は、あっけにとられて、『はい』って言っちゃった。」
あれが始まりだったのよね・・と栞さんは上の方を見上げて言った。
「夕食は楽しかったわ。仕事の話とか、趣味の話とかで盛り上がって。私は読書をしたり、パッチワークなんかをしたりするのが好きなインドア派で。彼は、週末にもサイクリングとか、身体を動かすのが好きなアウトドア派だった。話が盛り上がると、彼の事をもっと知りたくなっちゃって。『あの、私、インドア派ですけど、今度サイクリングに付き合ってくれませんか?』って、自分から誘ってしまったわ。」
「それで、何回か会っているうちに、自分たちの価値観が、意外と似ているなってことに気が付いたの。3回目のデートの時に、彼が、『あの、栞さん。僕と、付き合ってもらえませんか?』って言ってくれて、私は二つ返事でOKを出して、付き合うことになったのよね。」
 
栞さんがほっと溜息をつく。
「こんな、おばさんの恋愛話なんて、興味ないわよね。」
栞さんが微笑んで言う。
「いえ、僕、とても面白く聞かせてもらってます。」
僕は言った。
「でも、ここまでの感じだと、すごく二人の関係性は良いように思えるのですが、何かがあったんですか?」
 
そうなのよね・・と栞さんは言う。
「私は、彼のことが大好きだった。でも、年月というのは恐ろしいもので、段々と相手のことに慣れちゃうのよね。最初は、そんなにお金を使わなくたって、彼と一緒にいるだけで幸せだった。でも、だんだん慣れてきて、いつも繋いでいた手も、いつの間にか繋がないようになって。
5年ほどした時、彼からプロポーズを受けたの。でも、それって、彼にとっては義務感みたいなものだったのかなって、今考えると思うのよね。」
僕は驚いた。
「義務感?義務感で人ってプロポーズできるものなんですか。」
栞さんが笑う。
「私も30になっていたからね。相手としては、何らかのけじめをつけないとって思っていたのじゃないかしら。」
でもね、と栞さんは言った。
「それなりに幸せだったのよ。ああ、この人と一生過ごしていくのかなって思って。それも悪くはないかもしれない。でも・・」
栞さんがふうっと溜息をつく。
「それだったら、最後まで、夢を見させてほしかったわ。」
僕は問う。
「何が起きたんですか?」
栞さんが、自嘲気味に笑った。
「彼に、愛人ができたの。私の勤めてた会社でも、可愛いと言われていた、3つ年下の後輩。」
 
「私はもちろん怒ったわよ。あなた、私にプロポーズしたじゃないと。私とあの子と、どっちを選ぶの?って。そしたら彼が、『栞、ごめん。僕はどうしてもあの子のことが好きになってしまった。婚約のことは、なしにしてくれ。』って」
 
僕は、考え込んでしまった。その彼氏というのは、相当なゲス野郎だなと。でも、5年付き合って、お互いマンネリ化が進んでいたのだったら、果たして、彼氏と栞さんが結婚して、幸せになれたのだろうかと。
夫婦って、どういうものなのだろう。31年間生きてきて、恋愛はそれなりにしてきたが、結婚はまだしていないので、僕にはよく分からなかった。
 
栞さんがまた口を開いた。
「その日の夜は、浴びるように酒を飲んだわね。それでも、彼の事が頭から消えなくて。ずっとそのことを考えているうちに、段々メンタルがおかしくなってしまったのよね・・。」
と。
「でも、幸いなことに、今は元気よ。精神安定剤飲んでいた時期もあったけど、今は全く飲んでいないし。」
栞さんが腕まくりをして見せた。
「こんな感じで、ミカン畑をしていると、けっこう日焼けもしちゃうのよね。今はミカン畑を栽培するのが、私の生きがい。」
そう、話す彼女の顔は、たくましくもあり、少し寂しそうでもあった。
 
(栞さん、まだ独身なんだな・・。)
帰りのマリンライナーに揺られながら、僕は一人考えていた。
(栞さん、魅力的な人だったけど、全員が結婚するわけじゃないもんな。栞さんが、今の人生に納得しているならいいけど。)
 
帰り際、栞さんは、僕にまだ青いだけのミカンを渡してくれた。何を思って、それを渡してくれたのかは分からない。ただ、そのミカンが、僕のまだ青い部分を表しているように思えて、仕方なかった。

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