差別の本能、理性の和

この話題は今まで投稿してきた中で一番危ないと思う。他人の意見を尊重できない人間はさっさとこのページを閉じるんだ。











俺は差別主義者だ。主に外国人が嫌いだ(特にお隣さんのアジア系の国)。
観光地でもないところで中国語とか聞こえようものならイラッとし、大声で喋り散らす韓国人を見ると殴りたくなり、ショッピングセンターの館内放送で中国語のアナウンスが流れる度に苦情を入れたくなる(厳密に言うとどっちが中国語か韓国語かわかりはしないのだが、それっぽいのが聞こえるだけで不快になる)。
不謹慎だが例のウイルスでポックリと死滅しないものかとも考えたこともある。買い物中の文句か何かがうるさい目の前の中国人を刺してやろうか、なんて考えたことだってある。

さぁ、ここまで読んで俺はどんな人に見えるだろう。差別の酷い気の狂った人だろうか。和を乱す悪人だろうか。
どちらにしろ今の日本では俺は『悪』と思われるのだろう。『差別はダメ』なんて教育を受けている日本ならば。

しかしどうだろう。
今俺が挙げた考え。これを一切考えたことがない、等とスッパリ言い切れる人がいるのだろうか。対象が中国人とか韓国人だけじゃなくてもいい。
部落出身の人でも、白人でも、黒人でも、心的障害や身体的障害を負った人でも対象はなんでもいい。そういった人達に対して一度も、そんな不快だとか考えたことすらなかった等と言える人はどれだけいるのだろう。

まぁ、これは俺のただの決め付けだが。
いないだろう、と思っている。

さっき挙げた特徴の人間全てを不快に思っているわけではないだろうが、どれかに対してはそう考えていることもあるだろう。
それを意識しているのかどうかは知らない。が、無意識のうちでも感じていて、俺の指摘でハッとしたならば差別だったのだろう。
自身の差別を否定しようとする人もいると思う。指摘した人間(今回の場合は俺)を攻撃することもあるかもな。自分はそんな悪い人間じゃない!なんて宣う人もいるだろう。

あほくさ。

自分の中にある感情を自分自身が否定して他人を攻撃、もしくは開き直りなどして誤魔化すなんて子供がやることだ。
大事なのは『差別の心を持たないこと』ではない。『考えはしても直接的に対象にぶつけないこと』が大事なのだ。

時に人は自身が潔白でありたいと思い、俺みたいな考えを真っ向から叩き潰そうとする。『差別は悪いことだ!』と。確かに正論だ。それを言われたら何も言えない。が、正論の暴力を自分の悪意と照らし合わせずに自身の潔白を見せるための強力な武器として使うのであればそいつはただの愚者なのだと思う。

より考え、自身の悪意と感情と、真正面から向き合って清濁併せ呑む人間でありたいものだ。

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