『明るい部屋』に潜むアンブッシュのお話 〜あるいはそれがシャニマスの古事記〜

 本稿は、シャニマスの期間限定イベント『明るい部屋』のイベントコミュを読み、釈然としない心地を終始感じた筆者が、その出処を探り記したものである。必ずしもコミュ本編に好意的な立場ではないので、褒め称えるような感想しか読みたくないという人は今すぐブラウザバックするのをお勧めする。

 なお、好意的ではないとは言っても、コミュやシャニマスそのもの、あるいはそれらを好むユーザー個々人を誹謗中傷する意図はないことを明記しておく。世の中には「肯定的な意見でないなら否定的な意見である」という思考をする人もいるようなので、念のために釘を刺しておいた次第だ。了解された方は続きを読み進めていって頂きたい。

「不意打ち」

 私が明るい部屋コミュを読んでいて理解に苦しんだ要因は、不意打ちの多さにある。ここで言う不意打ちとは、鳥山仁氏の著作『純粋娯楽創作理論 第一章・面白さの基礎原理』での用法に準じるものとする。

 不特定多数の受け手に開示する作品で、相手の予測を促す情報を提示しないで、いきなり驚かすというやり方(本書では以降から、このやり方を不意打ちと呼称します)

 相手の予測を促す情報を提示しないで、という部分が最大の味噌だ。それを踏まえた上で、明るい部屋コミュに含まれていた不意打ちをいくつか抜粋しよう。

不意打ちの具体例

 オープニングにはほぼない。最後の最後、メイクも落とさずに寝落ちしたはづきが奇妙な夢を見たらしいシーンを不意打ちと呼ぶこともできなくはないが、あれはむしろコミュ全体の主題やそれに繋がるものの前振りとして捉えた人が多いはずだ(ちょうど、プレゼン・フォー・ユーコミュにおける謎の無線のように)。
 最初の不意打ちは1話、あさひと果穂が合流したところにある。果穂はあさひが事務所に行くものと思っていたがどうやら違うらしい、というところまでなら、促された予測が裏切られる(つまりは面白い)シーンとして理解できる。が、その直後、あさひの言った「霊を探している」という旨の発言。これは間違いなく不意打ちだ。言い換えるなら、あさひが霊を探しているという発言や行動をとることを、この時点の読み手は何ら予測できていなかったはずである。
 オープニングから1話の大部分まで、話題の大半ははづきさんに関するものだった。冬優子がプロデューサーに予定があるのを察する、というシーンも、その直前にはづきさんがおめかしして出て行ったところから「もしかして、はづきさんのデート相手ってプロデューサーでは?」という予測を立てさせる役割が与えられていた(後にそれはミスリードだったと分かるわけだが)。ほぼはづきさん一色だったそれまでのコミュに、まったく何の前触れもなく、「霊」というワードが飛び出してきたのだ。これを不意打ちと呼ばずして何と呼ぶべきか。
 「芹沢あさひは突飛なことを急に言い出し、のみならず実行に移すキャラクターである。だからいきなり霊を探し始めるくらいは予測可能だし、従って霊探しを宣言したあさひは不意打ちなどしていない」と反論されれば、いくらか譲ってなるほどと頷けないこともない。が、その場合でも、2話の冒頭で早々に突きつけられた不意打ちは言い訳のしようもあるまい。

 2話は何人かのアイドルが何かに驚くという場面から始まる。多少の知識があればすぐにでも、なかったとしても続く会話で、舞台が千雪の部屋であることは窺い知れよう。だが、そこにいる面子はまったく脈絡がない。寮に下宿しているアイドル達か、と思えばそうではなく、アルストロメリアのメンバー以外の顔もある。つまり読み手は、彼女たちが千雪の部屋にいるということ自体が予測不可能だった(アンティーカの面々のみで、恋鐘あるいは咲耶の部屋だったなら得心もいったろうが)。その上、コミュが始まっての第一声で何事かに驚いてみせた。一体、何に? 当然、読み手はそんな状況を僅かたりとも想像できなかったはずだ。面子も最初の台詞も、何の予測も促されないままに見せられた。あまりの脈絡のなさに、コミュ読む順番を間違えたかと首を傾げたのは、果たして私だけだっただろうか。
 いくらか好意的な解釈をするとしたら、同コミュ内でのドタバタ騒ぎでアイドル達が混乱している様子を読み手に最初から明示するため、だったのかもしれない。が、そのためだとしても少々ややこしすぎやしないかと、私には思えてならない。

 その次の大きい不意打ちは3話の冒頭。蝋燭の灯された背景にLalala……というコーラス。これまた「読む順番、間違えた?」と不安になる出だしだ。個人的にはもうこの時点で相当に辟易していたのだが、続くノクチルの誓いの言葉朗読が不意打ち二連発として襲いかかる。
 その少し前、つまり2話の後半でプロデューサーとはづきさんの結婚について仄めかされていたから、それを前振りと受け取れないこともない。だがそう解するにはキャロルのコーラスはやや不似合いだし、2話終了直前にあさひと果穂が霊探しのために寮に到着した場面が一種のノイズとなってしまっている。プロデューサーとはづきさんの結婚疑惑はいったん脇に置いてあさひ達の霊探しの話が始まるのか、と思いきや話題はすぐさまとんぼ返り。この近辺は特に、初見の時点では情報整理に難儀した部分だ。

 他の細かい例を挙げるとキリがないので、不意打ち紹介はいったん打ち切る。その内容そのものもさることながら、1~3話という前半部分に不意打ちが集中していた(=比較的早い段階から、読んでいて首を傾げる場面が目白押しとなっていた)。故に、「え、ちょっと待ってその話どっから出てきた?」「さっきまでのお話、どこいったん?」「……これ、何なん? 私はいま、何を見せられてるんだ?」と、読み進めるごとに思考回路が疑問符で詰まってしまい、肝心要の本旨を読解できるだけの余裕がなくなっていったのである。

なぜ不意打ちは困るのか

 不意打ちそれ自体は物語手法としては必ずしも間違ったものではない。それを多用することも技法のひとつと言えよう。だが今回、明るい部屋コミュで用いられた不意打ちの数々は、忌憚のない言い方をしてしまえば、情報の並べ方が乱雑に過ぎたがために生じたものという風に感じられる。
 一度全編を通読してから振り返ると、初見時では不意打ちに思えた場面にも一定の理が通っていたことが後に示されることが分かる。あさひが霊探しに繰り出したきっかけははづきに霊について教えられたからだと4話で明かされたし、2話冒頭で千雪部屋にアイドル達が集まっていた理由や寮に住んでいないアイドル達がその日に限って寮にいた理由も後に回想シーンという形で説明されている。「読み手がびっくりするシーンを描く→その説明を行う」というパターンが何度も用いられた、そう表現してもいい。
 これもまた、物語表現の一種として古くから用いられているものだ。が、その構造上、不意打ちになりやすく、また時系列が前後するので混乱を招きがちだ。従って普段以上に情報の並べ方に気を遣う必要がある。
 コミュ全体の構造も相当にややこしい。「はづきさんに関する話」と「アイドル達の様子」を平行で描き、かつ、アイドル達の様子は種々様々。季節の仕事に励む者あらば備品買い出しに出る者あり、部屋掃除を手伝う者もいればキャロル隊として歌の練習をする者もいて、果てはスーパーでバイトする面々までいる始末。このキャラはどの行動を、と明確に区分できるものではなく、二足の草鞋じみた行動を見せたアイドルも一人や二人ではない。
 ただでさえ登場するキャラクターが多く、主題二つが平行して描かれるような構成で、しかもその片方は群像劇の形態となっている。どれだけ気を遣っても遣い足りないほど、読み手への情報の渡し方が難しくなるお話だ。そんな状況で、不意打ちを含む混乱を招きやすい手法を濫用するのは、私には最善手とは思えなかったのだ。

 情報の並べ方に違和感を覚えた例のひとつとして、千雪の行動を挙げることができる。2話ラストであさひと果穂が寮に到着した場面で、応対に出たのは千雪だった。とりあえず開ける、と返答していたことから、玄関の鍵を開けにいったと考えるのが自然だろう。が、その後に千雪が登場したのは、樹里とともに買い物している場面だった。
 私としては、千雪はあさひの相手をしているものかと思っていたので、飛び出していった樹里とともに暢気に買い物しているシーンがあまりにも唐突に思えた(これも一種の不意打ちである)。あさひの相手を別の人に任せたという一幕か、あるいはせめて台詞の一言でもあれば、「え、なんで千雪さんここにおるん?」と首を傾げずには済んだかもしれない。
 そしてその千雪とともに虫取り網を買った樹里にしても、凛世の様子を確かめるべく寮を飛び出したはずだ。誤解が解けて胸を撫で下ろした様子の凛世と恋鐘のシーンが直前に挟まっていたので、樹里も凛世は大丈夫だと判断したのだろうと理解することはできたが、ちょっと展開が急に過ぎるというのが正直な所感である。このあたりは、回想という形でもいいから、プロデューサーとはづきさんがアイドル達の誤解を解いて安心させるシーンを挿入しておけば、もう少しスラスラと読めたかもしれない。

 あえて大雑把にまとめると、私が明るい部屋コミュに覚えた違和感の所以や、テンションの置き所が最後まで掴めないままだった理由は、提示される情報の内容やタイミングがチグハグなように感じられたから、ということになる。そのチグハグさの最たるものが、大小様々な不意打ちだった、ということだ。

世の人の所感や如何に

 と、ここまでは私の感じ方である。ツイッターなどを見ていると、今回のコミュも例によって素晴らしいとの称賛の声が多々見受けられる。
 念押ししておくが、私とて明るい部屋コミュは欠点だらけだと言いたいわけではない。個々のシーン(八面六臂の活躍を見せるはづきさん、仲良くなったの、少しずつ馴染んでいく小糸、ダンディズムの塊みたいな社長、後方彼氏面黛冬優子、いいな→おあいこだよ、はづきさんと父の思い出、などなど)で感じ入るところは多々あったし、評判を呼ぶだけのものは確かにあると頷くところはある。
 しかし、あるいはだからこそ。コミュ全体を見渡した時、話の組み立て方や情報の渡し方は本当にこれでよかったのかと、疑問を呈さずにはいられないのだ。

 情報がきちんと伝わるかどうか、というのは物語においてとても重要である。いや、物語でなくても、あらゆる表現物において最も重視されるべきだと言っても過言ではない。
 プレバトというテレビ番組をご存知だろうか。芸能人らに俳句などの創作・表現を行ってもらい、その才能の有無を判定する人気番組だ。夏井先生の辛口俳句査定が特に有名だろう。私も、毎週ではないが継続的に見ている。私がこれを好んでいる理由のひとつは、才能の有無を査定するに際し「伝わっているかどうか」をかなり重要視しているところが挙げられる。
 プレバトで才能ナシと判定される場合、大抵は「何を伝えたいのかが分からない」「表現するべき特徴が表現できていない」という趣旨の査定が下される。逆に、才能アリと褒められる場合は「意図や趣旨がよく伝わってくる」「細かな特徴や質感をも描き出せている」と評されるケースが多い。特待生や名人と呼ばれる、特に技術レベルの高い参加者の場合は高度な技巧面での良し悪しも加味されるようだが、基本的に「伝えたいこと、伝えるべきものが伝わっているか、いないか」がイの一番に見られることに変わりはない。
 そしてこれが、プレバトだけで通用する独自の採点基準なのかと問われたら、そんなはずはないと断言できる。小説であれ音楽であれ、シャニマスコミュのようなアドベンチャーゲームっぽい物語であれ、あるいはゲームそのものであれ……作り手(個人・チームを問わず)は受け手に何事かを伝えたいがために表現活動を行うものである。ごく限られた受け手のみを相手する場合であっても、この原則が変わることはない。
 その観点で言えば……私の査定する限りにおいて、明るい部屋コミュに才能アリの太鼓判を押すことは、いくらか以上の贔屓目を以てしてもできないのだ。描かれているものの意味や意図を把握しようとする時点で、少なからず躓いてしまったのだから。

 とはいえ実のところ、私は自分の物語読解能力をあまり信用していない。ミステリーの類いなどは、小説に限らず漫画やドラマでさえも、ギミックや証拠などを頭中で整理することがなかなかできない。「なんか偉そうなこと書いたるけど、テメェが分かってへんことなんざ、世の人の大多数は平気で理解できとるんやで」と言われたら、まぁそうだろうなと納得できる自信がある。
 読解能力の高低が問題でなかったとしても、私の着眼点が誤っているという可能性も挙げられる。先に例に挙げたプレバトでは、才能ナシと判定された理由として、その表現方法において軽視してはならない点に注意を払わず、そこまで重要ではない部分に無闇に拘る……といった事例も散見される(「ここが分かってなきゃダメだの」「そんなことどうでもいいの」と一刀両断する夏井先生とともに)。根本的な姿勢や考え方がズレている、お作法が分かっていない、そう言い表すこともできる。「シャニマスコミュに不意打ちが多く盛り込まれている? そういうものとしてスルーしろ。そこは本題じゃないんだから」、という風に諭されたら、あるいは却って納得できるかもしれない。

 お作法、というとなんだか堅苦しく感じられるだろうが、作品を存分に楽しむには製作側の意図を受け手が汲むこともある程度は求められるものである。私は死にゲー大好きで名高いフロムソフトウェアのゲームを大層好んでいるのだが、この会社が作るゲームは大体において、初見では理不尽の塊としか思えないほどに難度が高い。誰でも初見で手軽にバッサバッサと勝ち進められる、そういう遊び方がしたい人にはひたすら不快でしかないだろう。だがフロムゲー愛好者であれば、幾たび死のうとも少しずつ突破の糸口を見つけ、辿り、そして遂には突破して喝采を挙げる、その行程すべてにこの上ない喜悦を感じるものだろう。「初見殺しに引っかかった? 何も出来ずに圧殺された? それでこそのフロムゲーじゃないか……」と。

 つまり、明るい部屋が私に示したのは、私はシャニマスコミュを楽しむためのお作法が身についていない、だからシャニマスコミュの読解そのものの才能が欠けているのではないか、という可能性なのだ。

 そういうわけで私は、本稿の主張(不意打ちの多さで本旨が読み解きにくくなっていた)が正鵠を射ていると確信することはできない。それどころか、シャニマスコミュに慣れ親しんだ諸兄諸姉によって本稿の主張が完膚なきまでに反駁し尽くされることを望んでいる節すらある。精緻な物語が最大の売りであるとされるシャイニーカラーズのコミュは、私が齟齬を覚えた部分でさえも計算の末に盛り込まれているほどに練り込まれたものである――そのような理解に至れたなら、それに勝る僥倖はない……と、少々身勝手なお願いを記したところで、いったん筆を置くこととする。




余談

 ここから先は完全に余談である。蛇足と言っても差し支えのない内容だが、ツイッターに書くには長すぎて、独立した記事にするには薄すぎる。原稿の端に貼り付けた付箋くらいのつもりで、読むなり飛ばすなりして頂きたい。

●小刻みな場面転換

 明るい部屋コミュに限った話でもないが、シャニマスコミュはどうも、場面転換をかなり頻繁に行う手癖があるように思われる。今回でいえば2話、結華らが千雪の部屋に避難するに至った経緯を説明する場面がそれに該当する。台詞送りひとつごとにばめんがクロスフェードするものだから、どうにもテンポがよろしくないように感じられた。「画面はずっとセピア調の回想シーンだが、台詞の方は今現在のアイドル達が説明しているものと過去実際に発せられていたものが交互に表示される」という形でもよかったのではあるまいか。
 似たような表現方法は4話、キャロル隊が腹式呼吸を練習している場面で用いられている。夏葉や霧子、灯織たちがユニットの垣根を越えてお腹がいかに動いているか(歌っているか)を手ずから感じている中、小糸だけが孤立していた。それを強調するかのように、同場面で立ち絵が表示されるのは最初から最後まで小糸だけだった。床や天井などを表示することもあったので、こちらもテンポはそこまで良くないわけだが、それでも回想シーンと現在のシーンを、反復横跳びでもしているかのように小刻みに行ったり来たりするのに比べれば幾分かマシだ。
 一方で、テンポがいいのが必ずしも良いわけではないのがまた難しいところである。余韻に浸らせたい場合などは冗長なくらいがちょうどいいこともある。とはいえ明るい部屋コミュの2話に関しては、タイトル通りにドタバタなお話だったので、テンポを重視するのもアリだったのでは……などと私は考える(そう思うから貴様はシャニマスコミュを読む才能がないのだ、と言われればグウの音も出ないが)。

●「はづきさんはPに自分の父を重ねて見ている」?

 ツイッターなどで明るい部屋コミュの感想を検索していると、上記の見解を示している人がそれなり以上の数、見受けられた。私にはどうも、その読解が正しいとは思えない。
 明るい部屋コミュではづきさんが父とのクリスマスプレゼントの思い出を追想しているのは合計5回……OPの最後、4話の始めと後半、6話の始め、EDの中頃。このうちプロデューサーが関わっているのは最後の二つだけ。もし、はづきさんがプロデューサーと父を心中で重ねて見ているのだとしたら、もう少し高い頻度で両者が連動していることを明示してもよさそうなものである。
 プロデューサーの言動から父のことを連想した、という場面なら三度ほど描かれている(6話冒頭と最後、そしてEDでケーキを渡すところ)が、それらを以て「プロデューサーと父を重ねて見ている」と解するのは、やや強引なように思えてならない。そう捉えて矛盾が生じるというほどでもないが、根拠が作中で十分に描かれていると断言するには少々足りない。
 あえて俗な喩えをするなら、女性キャラクター二人の仲の良さが表現されているというだけで「この二人は付き合っている」と曲解するのと、相当に似ている。「二人は付き合っている、だから仲がいい」が成り立つとしても、「二人は仲がいい、だから付き合っている」が必ずしも成り立つとは限るまい。同様に、「はづきさんがプロデューサーの言動から父を連想した、だからはづきさんはプロデューサーと父を重ねて見ている」もまた、正だとは断じられないはずである。
 大雑把な推論だが、先年のクリスマスコミュであるプレゼン・フォー・ユーの印象に引っ張られているのではあるまいか。そちらでは社長がプロデューサーに対し、並々ならぬ想いを託していると思しい様相が描かれていた。その読解にまで異を示すつもりはない、けれどその前例が明るい部屋コミュの解釈を行うに際してある種のバイアスとして働いた結果、「はづきさんはPに自分の父を重ねて見ている」という理解が生じた……と、いう私の見立ては、果たしてどれくらい当たっているのだろう。ヤアヤア我こそはシャニマスコミュ読解作法の特待生、と名にし負う方の反駁、頂ければ幸い至極である。




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