品質/Quality is 何? という小話。

○序論

「作品の品質が高いとは、どういう意味か」
 そう言われてあなたはすぐさま答えを用意できるだろうか。よしんばできたとして、次の質問も重ねられたらどうだろう?
「あなたの言う高い品質の作品とは、あなたがその作品を気に入っているかどうかと関係あるか? 『あなたがその作品を好いているから、あたかも品質が高いかのように錯覚しているだけだ』と言われて、それは違うと断言できるだろうか?」

 本稿は「品質(クオリティ)」という概念そのものについて、今一度、詳細に論考したものである。「品質が高い/低い」という言葉は、しばしば「好き/嫌い」と同義であるかのように使われている。あるいはそもそも、「品質が高い/低い」と「好き/嫌い」を区別する発想がないと思しい様相すらもよく観測される。そういう状況に私なりに一石を投じるべく、筆を執った次第だ。平たく言うなら、

「品質という言葉は、そんな軽々に使えるものじゃない」

 と、そういうことが言いたいわけである。

○本論

・品質とは何ぞや:ISO規格

 ある言葉とそれが指し示す概念について語るならば、その定義について確かめておかなければ話にならない。とはいえそれはそれほど簡単ではなく、「品質」を国語辞典で引くと「品物の質」という、なんともそのまんまな意味が出てくる。そこでもう少し専門的な定義を持ち出したい。

 ISO規格、というものがある。製品やサービスに関して世界中で通用する規格を設けることで、国家間でのスムーズな取引を実現しようという目的で作られた国際標準のことだ。比較的身近な例を挙げると、非常口のマークやネジの性質といったものがISO規格で定められている。制定したのはスイスのジュネーブに本部を置く非政府機関International Organization for Standardization、略称ISO。製造業に務めている人間ならば極めて身近で、そうでない人もISOの文字はどこかで見たり聞いたりしたことがあるだろう。
 それが品質という語とどう絡むかというと、実にシンプルな話で、品質という語の定義がISO規格で定められている。そしてその定義は、工業以外の分野でも流用・応用が効くのだ。

 以下、こちらのページより引用する。一部、誤字と思しいものを修正したり句読点を追加したりしている。

ISO9000:2015(2015年に制定したISO9000という意味です。)に「品質」は次のように定義されています。

3.1.1 品質(Quality)
品質とは
「本来備わっている特性(3.5.1)の集まりが要求事項(3.1.2)を満たす程度。」
です

3.5.1 特性(Characteristic)
特性とは
「そのものを識別するための性質」
です。

3.1.2 要求事項(Requirement)
要求事項とは、
「明示されている、通常暗黙のうちに了解されている、または義務として要求されているニーズ又は期待。」
です。

 要するに品質というものは、
① 評価対象の要求事項をリストアップする
② 評価対象の特性をリストアップする
③ ①と②でリストアップされた各項目を比較する

 という行程を踏むことで初めて評価できるものだ。

 堅苦しい表現が続いたのでもう少し噛み砕いて説明しよう。
 例えば、プラスドライバーの品質を評価したいとする。この場合、要求事項は「先端部はネジ山に合うか」「軸はどれくらいまっすぐか」「作業に支障を来さない程度の重量に収まっているか」などが挙げられるだろうか。そしてそれらに対応する特性は「先端部の形状や大きさ」「軸の歪みの計測値」「工具の総重量」になる。そして特性が要求事項を満たしているなら、それは「品質を満たしている」と言える。
 従って実は、品質という概念そのものに高い低いはありえない。要求事項を満たしているか満たしていないか、二つに一つでしかない。普段、慣習的に用いられている「品質が高い/低い」とは、それが満たせている要求事項をも考慮に入れなければ判定できないのだ。

・作品の品質評価:要求事項と特性

 そろそろ「作品の品質」の話に戻そう。先に挙げた品質評価の方法を何かしらの創作物に当てはめるとする。アニメでもゲームでも、絵画でも映画でもストリートアートでも何でもいいが、以下、筆者自身が馴染み深い小説を例に挙げたい。

 先述した通り、品質を評価するには要求事項と特性をそれぞれ把握しなければならない。特性については比較的簡単だ、作品そのものを観察すればいい。本文の長さや登場人物の数といった数値化しやすい項目もあれば、クライマックスシーンでの盛り上がりや世界観の作り込み、描写の正確性、心理描写の多寡など数値化の難しい項目もある。誤字脱字の有無や数、というのも品質を左右する特性だろう。が、いずれにしても作品を読めば把握できることに変わりはない。

 さて、では、要求事項はどうだろう? そもそもこの場合、要求事項を出しているのは誰か? 「明示されている、通常暗黙のうちに了解されている、または義務として要求されているニーズ又は期待」を、実際に執筆者に提示し、特性と照らし合わせて品質評価をしているのは誰か?
 読者、ではない。読者は完成品となって初めてその作品に接することができる。これは商業作品でも個人制作でも変わらない。そして品質の評価は作品を世に出すよりも前に行われるのが常だ。発売ないし発表できるに値する品質が満たせるまで、推敲や改稿を繰り返さなければならない。そうである以上、作品の要求事項を決めるのは読者ではありえない。
 であれば答えは二つに絞られる――筆者当人か、あるいは担当編集者(およびそれに類する、筆者とは別の人間)。前者は主に個人制作の作品で見られるケースであり、後者は商業作品のほぼ全てで見られる体制だろう。「この作品はたくさんの登場人物を出して、そいつらがとにかくハチャメチャに動きまくる話をしよう」とか「主人公とその周囲の数人にフォーカスを当て、細やかな人間模様を丁寧に描こう」とか……そういった作品ごとの要求事項を定め、それに従って執筆を進める。そして折を見ては品質評価を行い、目標未達の項目があれば修正する。その繰り返しによって、公開・発売できるだけの「品質」を確保するものだ。
 そしてこの要求事項は、少なくとも作品そのものに書き添えられているものではない。インタビュー等で作者や担当編集者によって詳らかにされるケースは確かにあるが、この世すべての創作物でそういう機会が設けられるわけではないし、よしんばそうだったとしてもすべての読者がそれを把握できているとは限るまい。

 つまり何が言いたいかと言うと、作品の受け手は要求事項のすべてを知ることができない、あるいは知る手段が極めて限られるのだ。作品の品質を正確に計るには、作品の特性と要求事項の二点が欠かせないというのに。
 これはとりもなおさず、

「原理的に、作品の受け手は、作品の品質評価を行うことができない」

 ことを意味する。

・品質評価の欺瞞:品質と好悪の混同

 そんなこと言っても、ネットの内外を問わず、作品のクオリティに関する話なんて山ほどあるじゃあないか――そう思った方も多かろう。そこで私は、本稿冒頭で投げかけた疑問をもう一度繰り返そう。

「あなたの言う高い品質の作品とは、あなたがその作品を気に入っているかどうかと関係あるか? 『あなたがその作品を好いているから、あたかも品質が高いかのように錯覚しているだけだ』と言われて、それは違うと断言できるだろうか?」

 作品を評価するにあたり、あなたならどういう部分に着目するだろうか。パッと思いつく範囲だと、

●感情移入できるか、できないか
●設定が一貫しているか、矛盾だらけか
●心理描写が緻密か、大雑把か
●キャラクターを大事にしているか、粗末にしているか

 あたりが一般的だろうか。だが断言できる、どの項目に着目するかどうかは「あなたの好き嫌いでしかない」と。あなたが重視する項目が、「作品の要求事項」と必ずしも合致しているとは限らない、と。

 詳細はここでは語らないが、「受け手がキャラクターに感情移入しないことを前提とした作品」は確実に存在する。『トムとジェリー』のようなコメディ作品が代表的だ。この手の作品は、登場人物(この場合はヒトではなくネコとネズミだが)がドジを踏んだり酷い目に遭ったりする様子を見てゲラゲラ笑うものだ。他人の不幸は蜜の味というやつである。「キャラクターが酷い目に遭うことが作品制作上の要求事項として挙がっている」、そう言い換えてもいい。
 一方で受け手の側も「キャラクターに感情移入できなくてはならない、という強迫的な観念を堅持する人」が一定数存在している。作品の制作者の側にさえも、感情移入はできなくてはならないと公言する者が少なくないようだが、いずれにせよ、そういう人間が『トムとジェリー』を見ても、まず楽しめはしないだろう。いちいち「痛そう」「かわいそう」と眉を顰めてしまい、笑うに笑えないからだ。

 感情移入したがる人が「これは駄作だ、見ていられない」と貶す作品を、感情移入しない人が「これは名作だ、何度でも見れる」と褒める。作品そのものはまったく変わらないのに、評価が評価者によってガラリと変わる。
 それ自体はごく自然なことだ。だが、これらの発言を「作品が高品質だ/低品質だ」と置き換えるのは、不自然なことではあるまいか。私情や私感によって、品質評価が左右されるのは、あっていいことなのか?
 事は何も感情移入に限らない。設定の一貫性だけで評価の高低を決めていないか? あらゆる作品で設定が首尾一貫していなければならない道理はないのに? 心理描写の有無やキャラクターの扱いだけでクオリティの程を決めていないか? それらを考慮するかしないかと、作品の品質とは、必ずしも関係あるとは限らないのに?
 ある一つの作品が「感情移入が一切考慮されず」「設定の矛盾も気にせず」「心理描写など申し訳ほどもなく」「キャラクターの扱いも極めて粗雑」だったとして。これら全てが「作品制作にあたっての要求事項を満たすため」だったなら、それは間違いなく「品質を満たしている」。何人に蛇蝎のごとく嫌われたとしても、品質というものは何ら変わらない。品質は好き嫌いの多数決で左右されたりはしない。

 あなたは「品質が高い」という言葉を。
 「自分が好きな作品に、気軽につけられる箔」のように扱ってはいないか?

 そういう人なんていない、とは言わせない。それがあなたかどうかはともかく、巷に溢れる「品質」や「クオリティ」という語の大雑把な(ああ、実に大雑把で身勝手な!)使われ方を見ていれば、楽観視など到底できない。

○結び

「原理的に、受け手は品質評価ができない」
「品質が高いかどうかと、好きか嫌いかは、まったく別の概念である」
「上記二点が、品質という語の使われる際に顧みられることはほとんどない」

 本稿を要約するとこの三行に尽きる。とはいえ実のところ、これをもって世を糺そうという気も特にない。私一人がネットの片隅で吠えたとて、品質やクオリティという語の濫用は止まるまい。それを堰き止められると思うほど自惚れてもいない。
 従って本稿は――ここまで長々と書いておいて何だが――どこまでいっても独り言にして、八つ当たりだ。

「シャニマスのコミュは実に高品質だ、それに引き換えデレステのコミュは低品質極まる」
 という類いの発言を見るたびに胸中に蓄積していった、
「『品質が高い』を『好き』の同意語としてしか使わない、それ以外の意味で使えるだけの能がないのなら。あなた方の言う『品質が高い』の類いの文言を、いちいち真に受けてなどいられない。まぁ、だからといって一人ひとり黙らせにいくほど暇でもないから、好き勝手に囀っていればいい。言われずとも、あるいは何をどう言われても、あなた方はどうせそうするのだろう?」
 という皮肉を、5000字弱まで膨らませた次第である。



「せっかくnoteを開設したのだから、何か記事一本書いてみるか」
 と着手してみたら、いつになく棘のある記事になってしまった。たまにはこういう日もある。とはいえこのnoteで毎回、こんな真面目くさった記事を書くつもりもない。その時々で書き散らしたいと思ったものを気軽に投げる場にしたい。と、なんだか締まらない形となったがこのあたりで一旦筆を置くこととする。へそ。

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