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【受験生必見】ドーヴ統一戦争まとめ③ ツェルニア降伏〜新総帥誕生

ついにエンテカリアを手中に収めたドーヴ統一政府”総帥”、シュレーン・カイマー。
前回に引き続き、ドーヴ統一戦争についてまとめていきます。

1924年5月20日

ツェルニアのモンス首相が降伏を宣言する。ドーヴ統一政府が誕生し、ドーヴがエンテカリア全域を支配する。

統一政府はババド条約を事実上の憲法とし、間接統治諸国にも遵守させた。
これにより間接統治国は統一軍への拠出以外の軍備を禁止され、国防については最低限の警察機構だけが残った。
(直接統治国にはドーヴ連邦の国内法も適用された)

これにより、間接統治をうける被支配諸国の無力化が進んだ。

1926年

反ドーヴ戦線がキユー共和国エルアの統一軍施設を襲撃する。
エルア基地襲撃事件

反乱は統一軍によって直ちに鎮圧された。
キユーの食料分配は翌月から極端な制限を受け、その期間は1年半にも及んだ。結果的に1万人以上の餓死者が出た。

ババド条約は事実上、食料分配の制限による統治の道具として機能していた。
カイマーは食料分配の操作により、エットファン問題とその解決を自作自演して、国民の支持を得さえした。

このころ、統一軍最高司令であったフォルカ・クリュンケがドーヴ連邦新首相に就任。
彼はドーヴ連邦の国内法とは別に、特別統治法を制定し、食料管理の厳格化と統一軍による取り締まりを行った。
また、各地域の旧王族や政治家の逮捕・監禁、資本家の逮捕・資産没収を実施して国民の団結を弱めた。

さらにクリュンケ政権は、世界最大の風俗街、キエンドルフ・ホサをはじめとする商業区域の経営権をドーヴ連邦に委譲させた。
これにより、西エンテカリアにおける文化経済の自主性は破綻した。

市民の間における反統一思想は裁判の手順を踏むことなく統一軍によって逮捕・処罰され、多くの犠牲者を産んだ。

直接統治国がこのように厳しい状況におかれる一方で、統一政府は間接等遅刻の民族・宗教・文化に寛容であった。また、間接統治国の工業化を進めることで発展を後押しした。
これらは、エンテカリア統治において間接統治国を懐柔したいカイマーの思惑が反映されていた。

翻ってラフ大陸においては、余力のない統一政府に代わって民間貿易会社が管理をおこなっていた。
アメジスタはツェルニア・バーデルタ・ハルボニア(旧同胞国諸国)のラフ大陸における領土に侵攻して勢力を伸ばした。

1929年

ドーヴ連邦領ブルボーにアメジスタが侵攻。
(ブルボー戦争

ドーヴの民間貿易会社は本国に援軍を要請したが、十分な支援が得られなかった。そのためブルボー地域が奪われる。

同様にクシリオ大陸東岸部、マラリン海貿易を含むユラオスト貿易網もアメジスタ・ボーがドーヴに代わって利権を獲得する。

ドーヴは圧倒的なランドパワーでエンテカリアを制覇したが、シーパワーの脆弱さがここにおいて露呈した。

アメジスタ問題に関連して、ドーヴ国内で派閥対立が激化する。
その焦点は統一軍の構成における各国の負担割合であった。

統一軍は45%をドーヴ、15%をゲレー・ミレージュ、間接統治国16カ国が40%で構成することになっていた。
当時のクリュンケ首相はアメジスタに対応するための軍拡を主張した。
これに対し副総帥エミュエル・フルマンは間接統治国の強化は統一崩壊につながるとして首相と対立した。

この裏にはカイマーの健康不安があった。
デル国際会議爆破事件で片足を失ったカイマーは術後の合併症に苦しみ、年々病状は悪化していた。
クリュンケとフルマンの対立は、カイマーの跡目争いといえるものだった。
カイマーはフルマン支持を表明していたが、統一戦争の英雄・クリュンケが全体には優勢であった。
間接統治国との扱いの差に不満を持つ直接統治国の国民や、マラリン海利権を確保したいソターリアはクリュンケ支持に回った。

1933年12月30日

総帥シュレーン・カイマー死去。フルマンが臨時総帥に就任。

カイマーの死から5日後、フルマンは統一政府の閣僚と間接統治国の代表からなる総帥選任会議を開催する。
投票によって新総帥はフォルカ・クリュンケと決まった。

クリュンケはドーヴ至上主義を掲げ、間接統治国への支配強化と軍拡を打ち出した。

その④に続く……




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