別府尺間神社
この前、別府に旅行に行ったときのことだ。
山沿いの道を散歩していると、長く急な階段があらわれた。別府尺間神社というらしい。
石段の幅はせまく、手すりもところどころ朽ちていて、ロープが張ってあるだけの箇所もある。
散歩をしていて、こういった「若干めんどうだが、行ってみるといいかもしれない」スポットに出くわすといつも迷う。
散歩においてすべてのおもしろそうな道を歩くことはできないので、常に暗黙の取捨選択があるわけだけども、ここでは分かりやすく二択になっている。
今回は旅先ということもあり、やる気が出たので登ってみることにした。
濡れた石段を慎重に登って、山道をすこし折り返すと、古びた鳥居に出た。「尺間大神」「大正六年一月吉日」とある。
わたしの知識は西洋に偏っているので、キリスト教のマイナーな異端とかには詳しいわりに、日本の神々のことはよく知らない。
あとで調べてみると、この神社の勧請元だと思われる尺間神社(佐伯市の尺間山頂にある)は、迦具突智神(かぐづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祀っているらしい。こちらの尺間神社も同じだろうか。
神社へと至る道には、巨木がいくつもそびえていた。周辺の森も含めて静謐な空間で、雪が降っているときに来たらうつくしいかもしれないと思った。
その先に目指す神社があった。建物は古びているが、狛犬や注連縄はわりあいに新しい。
あの階段を登る前は、この神社に足を運ぶ人も少ないのではと予想していたが、参拝者用のノートに残されたメッセージの日付は意外と新しかった。ぱらぱらとそのページをめくりながら、信仰についてすこし思いを馳せた。
「そこに信仰がある」と感じられるのは、個人的には、それのために人が祈ったり立ち働いたりする姿を見るときだ。
そういった意味での信仰を今までで最も強く感じたのは、意外にも、と書いたら失礼になるだろうが、天理教の教会本部で祈る人々を見たときだった。独特の歌うような礼拝姿をおぼえている。
キリスト教やイスラームのような伝統宗教に慣れていると当然のように思えることだが、人が自ら考え出した概念のためにあれこれ労働をしたり時間を使ったりすることは根本的にすごいことだと思う。
中も古びているが、崩れているところはない。奥の壁に能面のようなものがかかっている。
縁側も風情がある。存在しないひと夏の思い出がよみがえりそうになった。
神社を後にする。このアングルで見てもやはり木の並びがかっこいい。
帰りの階段はより絶望的だった。湿った落ち葉で足元がすべりやすい。一歩一歩、横歩きのように降りた。
おまけ: フィルムカメラ(OLYMPUS XA2)で撮影した尺間神社
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