【受験生必見】ドーヴ統一戦争まとめ① ドルボン協定〜リックザブジット大戦
20世紀最大の悲劇といわれるドーヴ統一戦争。
世界史の単元の中でも重要な位置を占めますが、流れや登場人物どうしの関係が複雑であるため理解が難しくなっています。本記事ではこの戦争について時系列でまとめます。
19世紀後半
エンテカリアの大国、バーデルタ・ドーヴ・ソターリア帝国の間でビリエル海貿易競争が加熱。
1860年
バーデルタ・ドーヴ・ソターリアがドルボン協定を締結。
別名「三すくみ条約」とも呼ばれる。協定3か国のうち、ある国がエンテカリア内で他国に侵攻した場合、残りの2か国が自動的に報復する。
同時期、バーデルタ・ドーヴ・ソターリアの3か国にツェルニア帝国を加えた4か国の間でラフ大陸における植民地獲得戦争が激化する。
1883年
ドルボン協定を基礎として、18か国が参加する国際会議が開催される。
1890年
ホッドルフ国際会議が開かれ、そこでエットファン問題が提起される。
不安から食糧価格高騰や暴動が発生し、第一次エットファン動乱が引き起こされる。
1891年
リックザブジット条約(拡大ドルボン協定)締結。ドルボン協定の原理を基礎とし、以下のような三つの国家グループが誕生する。
ツェルニア帝国から分離した経緯を持つ大国アメジスタが、地理的優位性を生かして勢力を拡大していたことが条約締結の遠因となった。
条約締結後数年
食糧危機は訪れず、エットファン動乱が沈静化する。
20世紀
1903年
主従国を中心として冷夏が訪れたことで、食糧不安が拡大し、第二次エットファン動乱が発生する。
動乱はエンテカリア諸国に拡大し、エットファンが群衆に殺害される。
1904年
ドーヴ労働党が選挙で敗北し、シュレーン・カイマー率いる第一保守党が政権の座につく。
第一保守党は帝国懐古主義を掲げる極右の野党に過ぎなかったが、国家による食糧管理を打ち出して支持を得た。
またこの頃、ババド条約機構の設立により、食糧管理が主従国諸国にも適用されるようになる。
1909年
セルブルのバレオ族とヤク族の対立が激化し、セルブル紛争となる。
1911年
国内にバレオ族を抱えるユベルクが、セルブル紛争において同民族を支援していたことが露見する。
同年6月、バーデルタ国際会議が開かれる。ユベルクの行動がリックザブジット条約に違反しているかどうかが議論され、会議は紛糾する。
主従国は条約違反であると主張し、国教国はそうではないとした。
同胞国の仲介によって、国教国が主従国に賠償金を払うとして解決をみたが、それは実際には履行されなかった。
同年8月、ニアゼレのデルで再び国際会議が開かれ、賠償金問題について議論する。しかし、1日目の夜にシュレーン・カイマーの宿泊するホテルが爆破される(デル国際会議爆破事件)。カイマーは片足を失う重傷を負い、また当時ドーヴの外務大臣であったヘットンが亡くなった。
犯人はユベルク出身の参戦派青年。
この事件を受け、リックザブジット条約に基づき主従国・同胞国が国教国に侵攻する(リックザブジット大戦の勃発)。
その②に続く……
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