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動画の話 「旅順大砲撃戦」

 二十八珊榴弾砲といえば、旅順要塞砲撃の主役です。その後は「軍神」として奉られ、そのに砲弾(堅鉄弾)は記念碑の意匠として使用されました。


磐田市緑が丘霊園

 これほど多くの日本人に敬愛された攻城砲ですが、旅順で用いられた各種火砲約400門中、僅かに18門です。
 火砲自体も明治17年に設計されたものであり、この日露戦争の時代においても旧式を言わざるを得ません。
 旅順に運ばれた二十八珊榴弾砲は、明治20年に国民よりの寄付を募った「海防献金」を基に製作されたものです。
砲弾である「堅鉄弾」は、硬化処理をした銑鉄製で重量217㎏と巨大な砲弾ではありますが、内部に込められた装薬は黒色火薬9.5㎏と炸薬量として質量ともに威力不足を感じさせるものでありました。
 二十八珊榴弾砲は、本来の海岸砲として時代遅れになりつつありました。


戦地に於て炸薬(黒色火薬)充填作業

 しかし、陸軍はその旧式海岸砲である二十八珊榴弾砲に攻城砲として旅順へ送ります。
 この旧式海岸砲に、旅順攻略の全てを託したのです。
 そしてこの二十八珊榴弾砲は見事期待に答えることになります。
 二十八珊榴弾砲のベトン(コンクリート)砲床は射撃安定性を高め、その射弾は確実に標的に命中し貫徹、ロシア軍堡塁の内部を破壊していきました。
 その威力は他の火砲を凌ぐものがありました。
 とある砲兵将校はこのように評しています
「十五珊臼砲弾10発よりも、二十八珊堅鉄弾1発の方が破壊力がある」
 しかし、この二十八珊榴弾砲が「軍神」として崇められる所以は、砲弾一発の威力だけではありません。


投射弾量グラフ

 これは旅順攻略戦に参加した各火砲の一発弾量と発射弾数を乗じた、投射弾量のグラフです。
 詳しくは動画をご覧ください。


 このグラフが意味する所は、砲弾一発の威力だけではなく、その砲弾数にあります。
 陸軍が二十八珊榴弾砲を旅順に送ることが出来たのは、威力だけではなく、その砲弾準備量があったからに外なりません。
 日本中の要塞に備蓄してあった、二十八珊堅鉄弾と炸薬(黒色火薬)そして信管である「海岸弾底信管」をかき集めて、内地には最低限の砲弾を残して旅順へ送りました。
 その成果が、3,615トンもの弾量によりロシア軍旅順要塞を破壊したのです。
この弾量は陸軍他の攻城砲の全弾量よりも多く、如何に二十八珊榴弾砲が旅順陥落に貢献したのか伺えます。


コンドラチェンコ少将戦死の地

 さて、この二十八珊榴弾砲を「軍神」たらしめたものは、戦場投入を決意した陸軍上層部や効果的に運用し戦果につなげた攻城砲兵だけではありません、一番の貢献者は、名もなき一般国民です。
 旅順に送られた二十八珊榴弾砲は、海防献金により民間の浄財により製作されたものです。そして、平時は大阪市の事業により水道管の製作を請け負い、生産体制を維持することにより、有事は砲弾の量産、火砲の作製につなげることが出来たのです。
 平時に民間の力を涵養させてきたからこそ、戦争に於て勝利を勝ち取ることが出来たといえる実例ではないでしょうか。

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