仮題:やがて君になるを読んだ。

のたうちまわりながら読んだ。当該作品を好きな人は、読むべきではない感想になる気がする。知らんけど。

始めてこの漫画を手に取ったのは数年前の書店で、1話がためし読みできる冊子で知った。恋の分からなさ、疎外感の感じがちょうど自分の実感と同じだ。ほとんど初めて、自分を疎外せずに恋愛作品に感情移入できた。主人公の通う学校の生徒会長、七海燈子もまた、誰かを好きになった事がないという…言っていた、彼女が、1話の終わりで、「好きになりそう」と言い出す。なんて効果的な引きだ。寒気がした。ちなみに悪い意味で。僕はそこまでずっと恋を知る人の事をあっち側、自分をこっち側と表現する主人公に感情移入していて、生徒会長もこっちだと言って、言った矢先にその見えない線をぴょいと飛んだ。その瞬間、タイトルを思い出す。「やがて君になる」

つまりこの漫画はきっと、人を好きになれない事が主題ではなく、自分の事を好きになってくれた人を呼び水に「好き」を主人公が知っていく、その過程を大切に大切に描く、それを断頭台の上でただ眺める物語になるんだろう。何を言ってるんだ、古今東西よくある話じゃないか。だけど自分でも驚くほど許せなくて、その許せないと叫ぶ器官が自分の体のどこにあるのか知りたくて、数年越しに血反吐を吐きながら読み終え、今これを書いています。

そもそも僕は百合が苦手だ。ただ、別に同性愛を嫌悪しているわけじゃない。どだい異性愛も同性愛も理解できないんだから。にもかかわらず百合に忌避感を覚えるのは自分の最古の記憶に元がある。僕の人生最初の恐怖は百合だった。

僕の姉は友達にものすごく好かれるタイプだった。うちの両親は共働きで、小学校低学年の僕を家に一人に出来ないので姉は友達と遊ぶ時僕を連れて行った。その姉の友達の目が、はちゃめちゃに姉の事が好きだ、という色と、コイツ邪魔だな、ていう色をしていた。最終学歴:保育園の僕は人生ではじめていらないものとして扱われるという経験をした。そして誰かに好意を向けるということはそれ以外を切り捨てる事だという認識をこの辺で固着化していった。

人にされて嫌なことは自分もするなという金言に従っていた僕は、誰かや何かを選ぶのが極端に下手になった。それ以外を切り捨てるという攻撃性をそこに見出したから。だからこの漫画は僕にとって武器を持たない人間からみた世界を描く作品かと思ったら、武器を持つまでの物語だったみたいなもの。大げさな例えだけどある意味正しかった。だって1巻の最後には僕の頭はすでに切り離されている。持つまでの話じゃない、耐えまなく武器を持つか持たないかを選び続ける話だった。

やがて君になる、は恋が出来ないという部分はほぼ1巻で終わっている。終わっているだろう、無意識にも選んでいるんだから。主人公が選び続けていること、変わり続けている事を自覚すること、を丁寧に描き続けて進む。そして読んでいる人間は真逆の事を突き付けられる。誰も好きになれない、誰かを好きになれる人が妬ましい、でもお前は好きになる以前に、誰も何も選んでこなかったし、知り合う人からのささやかな好意すら攻撃性のレッテルを貼ってみない振りをしてきただろう…。

そういう僕の勝手な独白と、いやにシンクロするように選ぶことの攻撃性も作中で描かれる。その最たる人が佐伯だ。一度は選ばれて、選ばれなくなり、自分で選んで、選ばれなかったが、今度はそれを受け止めた。正直、百合作品によくいる、牽制しがちな私が先に好きだったのにタイプの人だな…みたいに思ってた。彼女はある意味、作中すべてにわたって武器を突き付けられ続けて立ちふさがる武蔵坊弁慶だった。たとえが悪すぎる。彼女がそのだいぶ力強い生き様で誰も選ばないことすらも選択で、その恒常性は嘘だと知らしめた。攻撃性も何も、選ぶことも、選ばれない事も、選ぶことを放棄し続けることも全部人を傷つける事をつきつける彼女は一番格好良かったな。ところで入間先生がスピンオフで彼女を書いているらしい。あの人はどれだけ僕の終わらない思春期の道行きに立ちふさがるんだろう…。

そのあたりからいい意味でこの漫画自体が見知らぬ他人の惚気話になった。よくある事、性別も何も関係なく地球に何兆何億通りもある話。
よくある、にたどり着けないように選ばないという扉を知らず延々とくぐってきて、この漫画すら僕に何も教えてくれなかったじゃないか!どいつもこいつも人を選んで傷つけて結局ぼくは人を好きになれるのかよ!なれないのかよ!って喚きたてる僕に、
お前がどうかは知らないし興味もないけど、あそこのカップルは少なくとも扉を選んでたぞ、という。
そういう漫画だった。

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