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どう思われるかより、どう思ったか。
最近、柄物の器もかっこいいなと思ってきた。
今までは、陶器が最高にカッコいいと思ってたけど、古伊万里のような柄のある器は、時と場所によっては、これ以上ないくらい格好が良い物なんだと思えた。それは、歳のせいかなぁと考えている。
少し前までは、食材がのる器に主張がある理由がわからなかったし、理由を聞いたところで食材という物体が乗り具現化した情報がもはやそこにあるのに、2次的情報をわざわざ器に乗せることに違和感があったのだけど。
それは、局所的な視点であって、人間の視点は割と高い位置にあり、カメラのように接写して情報を受け取る訳ではなく、空間がある前提で五感を使用し情報を得ているので、俯瞰的視点は必ずある。
その高い視点から場所との均衡を狙った時に絵付きでなければならないこともある。というのを今まで考えれなかったんだなぁと、最近では思っている。
ただ、それはそれで。
物事の慣れとか、情報の新鮮さとか、そういったものが段々に”歳”というものを通して、私という人間に反映されていったからだと思う。
情報を接写で認識し、いろんなものを受け取ろうとしていて、今ではそれが慣れや疲れで一歩引いて見れるようになったからなのかもしれない。
そう思ったとき。
美しさを項目として勉強し、使えるようになる事は社会的意味があると思うが、その時に美しいと感じる気持ちは誰の同意も、世間の目も、関係はないんだろうなと。
ただ、美しいなと感じれる心は勉強することでも、社会で通用しなきゃいけない事でもなくて。
ただただ、自分の心に感動していれば良いんだと思う。
それは、どんな感性にも言えて。
美味しいにも通じている。
人に求められることも、人と共有できることも、
それはそれでとても大事だろうけど。
いいなと思ったものに、素直に「いいね」と声に出せることが大切なんだと、今は思う。
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