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#019 世阿弥の「離見の見」の深み


世阿弥の「花鏡」(舞声為根)を読んでみた。
世阿弥は「離見の見」を教えていた。

自分の肉眼では、見ている自分を見ることはできない。
観客席の客が見ているように、同じ心になって、心眼で自分を見ようとする。

「見所同心」
「見所同見」

僕は、世阿弥の言っていることをつかむために、虚空を見つめながら考えた。
言葉だけで理解しようとしても、上滑りするだけのように思えたから。

想像をしてみる。
舞台に自分が立っている。
それを観客席から見つめている。

自分とはあそこにいながら、ここにもいる。
場所が入れ替わる。
自分は、身体でありながら、心眼である。

「客観的認識」

という言葉が浮かんで、「なんか合わないな」と思う。
世阿弥の離見の見は、どうして客観的認識とは違うと思うんだろう。
理由は判然としないけど、何かが違うのだと思う。

「目前心後」

世阿弥は言う、「目を前に見て、心を後に置け」と。

客観的認識と違うのは、世阿弥が「心」のあり方を軸に話しているからだ。
身体の物質的な関係を言っているのではない。

目が見る、のと。
心が見る、ということが、二重になってある。

観客席にいるお客さんは、舞台上の役者を見るけれど。
それは、目が見ているが、同時に心が見ている。

世阿弥の「離見の見」について考えていると、
案外、心は自在なのかも知れないし、
逆に、強力に、我見に縛られているのかも知れないと思った。


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