DQ的表現とゲイ・カルチャーのゆくえ

Overマガジンのイベントの内容に女性蔑視的な表現があったという指摘についてもうちょっと書きます。

まず、そもそもOverマガジンとはというところからです。
私がやっているこの雑誌はセクシュアルマイノリティに関してLGBTムーブメントの中に収まらないことについてもきちんと拾っていこうというのが1つのコンセプトです。

創刊号のタイトル「人権! 差別! LGBT!」というのは、当時まだ、LGBTムーブメントの中で人権や差別ということがあまり語られていなかったため、それこそがLGBTイシューの核なのであると主張したのでした。

もともとLGBTムーブメントのきっかけとなったのは2012年に『週刊東洋経済』と『週刊ダイヤモンド』の経済誌2誌がLGBTについて取り上げたことです。2誌はマーケットとしてLGBTを見ており、その後も、マーケットとして、あるいは人材活用というような、経済合理性からLGBTの存在を認めるべきという論調が続きました。

そうした中で、人権や差別ということはほとんど触れられることがなかったのです。たった3年前のことですが、今では状況が変わり、LGBTムーブメントが人権や差別の問題であると語られるようになったのは喜ばしいことです。

そうした本誌のコンセプトや、創刊号のテーマに基づいて、当該のイベントは『LGBT SCANDAL!!』と題して行われました。それは人権や差別についてはもちろん、LGBTムーブメントの暗部やスキャンダル、またLGBTのカルチャーについて、これまで触れられてこなかったことについて語ろうというものでした。

そうした企画なので、ゲストにドラァグ・クイーンを迎えたわけです。
その衣装は無数の女性器をあしらったものでした。そのドレスはこのイベントのために制作されたものではありませんが、その意味は、隠されたものを顕にするということであり、すべての生は女性器から生まれるのにそれをタブーのように扱うのはおかしいということだと聞いていて、イベントの趣旨にあったものだと思いました。(ただし、その衣装の意味ついてイベント内で詳しく触れられたわけではなかったですが)

そのドレスを着たドラァグ・クイーンが「アンタたち、マンコ嫌いでしょ!? マンコ嫌いな人は手をあげて」と言ったわけです。

もちろん、このドラァグ・クイーンの発言は字義通りのものではありません。ドラァグ・クイーンは皮肉や当て擦り、二重の意を含む捻った言い方をするものです。また、あえて刺激的なワードを使うこともあります。私は、この「マンコ嫌いな人は手を上げて」という発言は、自らを含むゲイのミソジニーを指摘するドラァグ的な表現と受け止めました。

こうしたドラァグ・クイーンの表現のあり方もまた、LGBTムーブメントからは外れたものと言えるでしょう。ドラァグ・クイーンという存在のあり方について、Overマガジンのイベントにわざわざ足を運んでくれるような人たちは認識を共有していて、この発言を字義通りに捉える人もいないと私は考えていました。つまり、一定程度に限定された聴衆を相手に通用する表現だと思ってたんですね。

正直に言いますけど、クラブなどで行うもっとクローズドなイベントではさらに乱暴な表現もしてます。もちろん乱暴であるというのは差別的ということではないですが。

「マンコ嫌いな人は手を上げて」というようなドラァグ・クイーンの捻った表現を否定することは、ほとんどドラァグ・クイーンの存在の否定に近いのではないかと私は思います。そうした表現が受け入れられない社会になってきているのだろうとも思っています。

私は、ドラァグ・クイーンのようなゲイ・カルチャーの中で育ってきた世代で、そうしたものを愛してはいますが、しかし、それらが不要になるときは来るのだろうなとは以前から感じていて、Overマガジンの編集後記でも、我々はもはやいかに美しく滅んでいくかを考えるべきではないかと書いたことがあります。

ドラァグ・クイーンが、皮肉や、当て擦り、捻った言い方という表現形式を取ったのは、それが生まれた当時、真正面から自分たちの存在や権利を主張することが難しかったからでしょう。しかし、今やそうした状況は改善されつつあり、さっき言いましたがLGBTムーブメントの中で人権や差別ということをきちんと主張できるようにもなりつつあります。

同様にハッテンのような特別な場での行為も、これから同性愛が当たり前のことになっていくのなら、なくなっていくのかもしれません。また、二丁目独特のノリや、オネエ言葉といったものも消えていくのではないかと思います。

私は、そのことに一抹の寂しさを感じないわけではないですが、それと引き換えに若い世代が生きやすい世の中になっていくのだろうと思うと、歓迎せざるをえません。私自身は一生、異性愛規範から徹底的に外れていくことに拘りたいと思っていますが、若い世代はそんな拘りを持つ必要もないでしょう。しかし、そういう独自のカルチャーについて記し、コミュニティの歴史として伝えていくことは必要でしょうが。

1人のドラァグ・クイーンのマンコ発言はゲイ・カルチャーの行く末という大きな問題につながります。このことについてはOverマガジンの次号でも取り上げます。(そう、「ゲイ」カルチャーなんですよね、すいません。当該イベントのテーマの1つにLGBTのカルチャーについてもあると書きましたが、内容的にほとんどはゲイ・カルチャーであり、そこにも男女の非対称性があることは認識しています)

私は、ドラァグ・クイーンの表現のあり方の問題として「マンコ嫌いな人」という発言は女性蔑視ではないのだと思っています。しかし、今回、指摘してくれた女性の怒りについては、きちんと受け止めて考える必要があるとも思います。なにしろ3年も前のイベントで、私はよく覚えていなくて、当時の資料を出してきて思い出しています。彼女が3年間、何も言わず怒りをため続けてきたことには、件の発言が女性蔑視であるかどうかに関わらず、確実に女性の生きづらさという事実があると思っています。

もちろん、ここで私が述べたことはシスゲイの立場でのもので、自らのミソジニーについて警戒はしていても、それから逃れられているとは限りません。別の立場からの批判や指摘があるでしょうが、それを受け止め、自らを省みていこうと思います。そうした営為を常に続ける以外にミソジニーやミサンドリーを超えて連帯していく道はないと思うからです。

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