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東京、時雨 大阪、驟雨

 新幹線は定刻通り、小田原を通過する。次は新横浜、品川、そして東京。新横浜を抜けたあたりから、新幹線の速度に負けた雨はそのまま、横流れの滝になって、眼前の窓を川のように通り過ぎる。東京、時雨はまだ止まない。

三月から、東京と大阪を行ったり来たりしていた。関西営業所の社員が続け様に転職し、存続が危うく、誰かが行かねばならない。その頃恋人と破局し、踏んだり蹴ったりだった私には、渡りに船の関西行きに思えた。たった一人手を挙げて乗った船は確かに、順風満帆だったはずだ。

 四月、新型ウイルスは流行り始め、それでも勇んで会社が用意したマンスリーマンションに入居した。次の日、目覚めと共に、身体の異常な怠さを感じる。疲労か睡魔かと思ったが、どうも違っていた。朦朧としたまま会社に行き、仕事をし、次の日もう立てなかった。運の悪いことに、体温計を持っていない。救急車を呼ぶと、彼らは重装備でやってきた。手早に血圧、体温と計る。朝6時にも関わらず、既に39度を越えている。頭はきりでかき混ぜる様に痛む。隊員は何件も電話をしてくれていたが、今以上に神経質な病院には、受け入れ先がなかった。結局処方だけされたタミフルを飲んだが、効き目は無い。
一週間後、やっと立ち上がれる様になった。起き抜けに飲む水は美味い。ベランダに出ると、久しぶりに見下ろす建物の高さに足が竦んだ。保健所から連絡がきたのは完治したと感じた後、検査は更に一週間後で、これは、まずいことになったと感じた。私の完治からおよそ一、二週間後、国は緊急事態宣言を発令した。

 広告は、博打に近いビジネス投資だ。身のある反響が返ってくることは稀で、運と確率を利用した、リスクの高い賭け事だと感じている。そんなものを売る私はというと、出来る限り負けない勝負をするために研究し、学び、工夫するが、それでも常勝はあり得ない。
宣言下、市場の広告財源引き締めは、火を見るより明らかだった。電話をしても訪問は愚か、担当者にすら繋がらない。意気込んで大阪くんだりまで来たのに、散々たる有様に、頭を抱えざるおえなかった。日に日にやる気が削ぎ落とされる。数社の手堅い受注と、新規で転がり込んだ広告を載せた、薄っぺらな雑誌が出来上がった時、溜息も出なかった。
予定調和はつまらない。うまくいかないのは、うまく行くときの裏返し。この経験が後々役に立つ。気休めの言葉は掃いて捨てるほど転がっている。だがこの、取り返しのつかないババを引いた様な、叫び出したい様な感覚は、納まりがつかない。ぼんやりとした気持ちで、日々が過ぎた。長い梅雨を抜け、かんかん照りになった大阪は、時折燦雨で私を濡らす。

 三月から九月、梅雨から驟雨、そして時雨へ。二つの雨の季節を抜け、また雨の季節に東京に戻ってきた。不思議と、大阪の日々は、恨めしく思わない。むしろ、清々しい陽気な季節だった様に思う。見慣れた銀座の景色は、それでも曲がり角にコンビニの新店や、建築途中だったはずのホテルに吸い込まれるスーツケースに、時間だけ過ぎた事を教えられる。次の長雨を、どこで過ごすだろう。その時肩を濡らす雨粒も、燦々とした驟雨であって欲しい。

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