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小豆島 「面描」

 インドで鉄道旅をした時、深夜から明け方までの数時間、駅前の石畳の空き地でカレーの匂いを纏わりつかせた見渡す限りのインド人達と眠ったことがある。なんの会話もなく、疲れ切った我々はそれぞれの鞄や丸めた服を枕に、草の中で深く眠った。不思議と恐怖は無かった。いつのまにか限界まで薄汚れた私は、現地民と見まごう風体になっていたのだろうか。それもあるだろうが、あの日あの場所は、ある種静謐な空間だったのだ。

 野宿をするのは、随分久しぶりの事だったが、小豆島でも抵抗感はなかった。焼けた防波堤の上は日が暮れてもじんわりと熱を持ち、何かに抱かれるような気持ちになる。岸壁に背をもたれさせていると背後の暗闇で誰かが咳払いをする音が聞こえた。ゆっくり立ち上がって振り向くと、禿げ上がった老人が煙草を吸いながら、「何釣ってるんやろな」と問うた。一瞬訳が分からなくて口籠ると、彼は対岸の釣り人達を指差した。

今の時期、水は暖かいから碌な魚釣れんのや。俺は釣りが好きでな、だから何釣ってるんやろな。彼は生まれた時から小豆島を離れた事がないらしい。
竿は振ってないな、若いもんは擬似餌ばかり使うけどな。生き餌使っとるんやろか。島のもんは畑か酒か、釣りかしかないからな。何釣ってるんやろな。この辺はよく釣れるんですか?
時期によるな。こんなごっついのもよぉあがる時もある。何釣ってるんやろな。おいちゃんは昔からこの辺に住んでるんですか?
俺か?山の向こうよ。何釣ってるんやろな。ちょっと見に行くか。

いつのまにか、見に行くことになってしまっていた。
老人の後を追って細い突堤を歩いていくと、若い男が2人、生き餌で釣りをしている。枝毛の様な釣り糸は、枝毛の先に針と餌がそれぞれ付いており、糸の先端にはフィルムケースの様な、餌入れが結びついていた。眼鏡をかけたスポーティそうな釣り人は、このフィルムケースから巻き上がった細かい生き餌におびき寄せられた魚が、枝毛の先の餌に食いつくのだ、と説明してくれた。
ぼんやりと彼らの釣りを見ながら、話をした。老人はいつのまにか帰ってしまった。

兄さんらは、ずっと島なんですか?
大学で出て、戻ってきました。俺もそうだし、彼もそうです。俺は兄弟がおったけど、誰も戻らんかったから、流石に戻らんとってなぁ。でも最近は、戻らんのがほとんどです。女の子なんて特にそう。そやなぁ。
兄さんは、東京からきとってなんな。仕事は何してるんですか。広告屋です。なんか聞くからに大変そうやな。皆さんは何しとってですか。俺は保育士です。一応、島で一番大きい保育所で働いてます。僕は土木関係です。東京なんて、電車が大変でしょう。ええ、キツいです。吊革持ってるのでやっとですよ。
島の人は、みんな釣りするんですか?大抵やりますよ。他にやることないもんな。飲むか、釣りか、パチンコくらい。でも、島の台は出ませんよ。今は盆だから、更に出ない。打たん方がいいよ。
兄さんいくつ?27です。おー、一個違いだ!28?いや、こいつが26で、僕は25。結婚はまだだよね。まだまだ。女の子もいないしな。

 話は弾まないなりに弾んで、彼らは生き餌を使い終わり、釣った魚を捌き終わって、顔を見合わせた。兄さん、取り敢えず車に乗ってけよ。道の駅で下ろすのは悪いが。
それでも十分ありがたかった。道の駅につくと、彼は私と一緒に車を降り、そばの自販機に千円を突っ込んだ。なんか好きなの押してくれよ。いや、そんなの悪いよ。いいから。彼は問答するつもりはない様だったし、ありがたくコーヒー缶を押す。
なあ兄さん、明日はどうするんだい?んー、あんまり考えてなかったな。あそこにバス停見えるだろ、あれに乗れば土庄まで行けるよ。土庄なら土産もあるし、そうだ、風呂もある。行ってみてくれよ。

彼はその後二言三言、放置しちゃって申し訳ないな、気ぃつけてな、と繰り返して、手を振りながら去っていった。
あの晩現れた、禿げ上がった老人は誰だったのだろう。あんまりにも寂しそうな私に痺れを切らした島の遣わした精だったのか、それともただの釣り好きのじじいか。多分ただのじじいだったのだろうけれど、私は初めて、島の面を捉える事が出来た。

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