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カンテラを灯す

 記憶がある自分の文章は、小学校一年生の時の作文だった。ばあさんの家で、本を読むために点けてもらったランプが、とても美しかった。その頃の私は宮沢賢治が好きで好きで、彼の文章に出てくる言葉が使いたくて堪らなかったから、ランプと書かずに"カンテラ"、と書いた。先生からは赤字が入ったし、心の中ではカンテラではない、と分かっていたが、だから今でもあの時の作文を、忘れられないのだろう。あの時の"カンテラ"が、今でも心に灯っている。

 最近は、文章を書くことも随分少なくなった。書いたとしても仕事のメモや指示書程度で、文章というよりは文書だ。仕事というのは困ったもので、自分に断りや言い訳を作るための、格好の材料になる。望まず知らず随分と、世話になったものだ。それにそもそも、仕事の繰り返しは、何かを書くための熱を冷まさせる。自分で自分をつまらないと思い始めると、誰かに読んでもらうために書く事が出来なくなった。どんなに心が揺れても、それを吐き出すための出口は、分かりやすい娯楽や惰眠に流れた。そのうちに、更に自己肯定感は低くなった。自分を評価してもらう基軸を、自分で封じたからだ。"カンテラ"を消しかけたのは、私だった。

 盆の頭に、恋人になりかけていた人と、いざこざがあった。つまらない切っ掛けだったがもつれにもつれ、盆の間の予定は吹き飛んだ。今住んでいる新大阪は彼女以外に知り合いもなく、出払った東京に借家はあるが、風呂に湯は出ず、締め切ったため至るところに黴が生えたそこには、帰りたくなかった。お前のいるべき場所なんてどこにもない、とあらゆる場所が言っている気がした。
溜まった荷物を持ち帰るため上京し、帰る度に呑む旧友に打ち明けると彼は言った。"お前は寂しいんだろ"と。先輩に媚も売れず、同級生と繋がりが強いわけでもなく、下に慕われているわけでもない。その上女にまで袖にされて、そのくせ一人で構わないと強がっている。住む場所のせいにするな、お前はただ、誰かに認められたいだけだ。その通りだと思った。

 ランプではなく、"カンテラ"を選んだ理由を思い出す。私はただ、選ばれたかった。目に留まりたかった。文章を書くのもそうだ。選ばれたいし、目に留まりたい。つまらない理由だが、誰でもそうだ。認められ、選ばれようと思って足掻いている。それでも選ばれないのは、つまらないからだ。友人と呑んだ次の日、旅に出た。

noteでは、文章を書こうと思う。出来れば、旅の文章を書きたい。今つまらなくて、居場所がなくて、認められていない人に届く文章が書ければ嬉しい。認められていない私が、認められれば嬉しい。そして、誰かに私の"カンテラ"を、お貸しできれば嬉しい。

"まだ少しあかるいのに、青いアセチレンや、油煙を長く引くカンテラがたくさんともって、その二階には奇麗な絵看板がたくさんかけてあったのだ。"

宮沢賢治 「黄色のトマト」


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