見出し画像

秩父「春を追う 夏は迫っている」

 2021年のゴールデンウィーク、始まりから呑んでばかりいた。切れ目なく古い友人と会う機会があり、人熱に浮かされた夜が続いた。人と酒を交わすのは嫌いではないが、ふっと終バスを待つ街灯に、堪え切れない寂しさを感じることがある。
後半はぶらりと外に出ると決めていた。冬の終わりと春の陽気と夏の匂いが入り混じった土の匂いはどんなだろうか。
私の住む西武池袋線は、良い路線だ。海は遠いが、毎日揺られる路線の終点に広がる森を想像すると、満員電車の中でもゆっくりとした呼吸が戻る。秩父はもう何度も訪れた町だが、それでもまた行きたくなる。

出掛けの朝、空は目に染みるほど澄んだ。ゆっくりと山を登る毎に更に青く晴れ、デニムの上着は要らなかった。

芝桜の咲く羊山は、既に見頃を過ぎていたが、人が少なくて丁度いい。コロナ禍のせいか逃した見頃のせいか、出店は一軒も出ていない。腹が鳴った。

ふと見上げると、大きな大きな葉の枝葉が生い茂る。あれは何の木だろう。インドであれくらい大きな葉を幾枚か組み合わせ、乾燥させて皿にしたものをよく使った。今よりもっと暑い季節だ。

御花畑駅からゆっくりと、秩父神社まで歩く。天麩羅が食いたかった。山に来たのだから、山菜も食べたかった。ぼんやりと目に入った飲み屋に入ると、壁に貼られた品書きにそれが見え、迷わず頼む。

食べ過ぎるほど食べて、商店通りの切れ間に見える秩父神社を目指した。大鳥居の向かいの舞台で、和楽を披露している。眺めていると、大きな太鼓を叩く女性奏者が老いた男性奏者と代わった。彼の叩く腹の底から響くような拍動は、止まった足を突き動かし、進め進め、と言っている様だった。

宿に着いてそのままベッドに倒れ込み、気付くと二時間ほど経っていた。開け放った窓から、夕焼けの陽が放射状に差し込んでいる。部屋の埃を刺す様にして進むその光を、ベランダで少し切り取ろうとした。

秩父は肉がうまいらしい。何度か来たことはあったが、その度日帰りの時間の無さに追われ、駅中の焼肉屋でしか食べたことがなかった。既にひもじい空きっ腹に押され、スマホ片手に外に出る。良い匂いに誘われてホルモン屋に滑り込むと、満席の店内は七輪から上がる香ばしい煙に満ちていた。箸が進むままに肉を焼く。最後に頼んだ肉刺し盛りを食べていると、隣席の子供達が店外に駆け出して行った。どうやら花火が上がっているらしい。折角だからと私も、腹ごなしに外に出た。ちょうど最後の花火が打ち上がり、少し遅れて響く残響が酔いを醒ます。

帰り道、寄り道をした西武秩父駅中で、日本酒とリンゴのリキュールのジェラートを買った。食べながら歩くと、ぽたりぽたりとクリームが指に落ちる。その都度舐めながら歩いた。どうやら、夏はすぐそこまで迫っている。目線を上げると、民家の障子に赤と青の鯉のぼりが透けて見える。もう5月なのだ。

翌日、昨日まで晴れ上がった空は、薄曇りだった。雨がぽつりと肩を濡らす。天気予報は、気まぐれの雨はじき上がると言う。信じて傘は買わなかったがその日、気に止めることも無い程に雨は降り続けた。
朝食を食べたその足で周辺を一巡りすると、丘の中腹に鳥居と社が見えた。散歩には丁度良い距離だと思い坂を登ると、更にそこから山道に沿い、鳥居は続く。いつのまにか軽い散歩は軽いハイキングになった。

丘の上には神錆びた稲荷があった。赤い鳥居を潜り、賽銭を投げ込んで後ろを振り向くと、秩父の小さな町が広がっている。肩で息をしながら来た道を駆け降りれば、私もまたその小さな町に溶け込んで見えなくなるだろうか。

八高線は幾度も、山奥で多量の砕石を積んだ貨物列車を追い抜く。
一台のスマホに頭を付き合わして覗き込む小学生四人組や、闊達な老年のトレッカー夫婦、今時には珍しい様な学生服の少女達、肩を寄せて居眠りする若いカップル。
我々も運ばれる砕石の様なものか。社会の礎となって、巨大な建造物や熱射に叩かれるアスファルトの下で働いている。夏になればゆっくり回るだろう電車の天井の扇風機を見ながら考える。

長瀞の渓谷を端まで歩くと、激しい流れに削られた岩が、問いを投げるように水中に見える。お前は今日、どこまで行く?お前は明日も明後日も、どこまで行けようか。流れは速く、深い。気付くとブーツの靴底が剥がれていた。岩に腰を下ろしてゆっくりと接着剤を塗るとじき、履ける様になった。

帰りの列車は、どうする事も出来ない眠りに化かされ、いつのまにやら家に着いていた。美味い飯と、美しい景色を思い出しながら、それでも胸が寂しいのは、ただ疲れたから、だけでは無かったろうか。

20210504-05

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?