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「命の秤」死ぬべきではなかった貴方について

 "人生"を語る時誰にでも、切り離せない死があるのではないか。年をとると、祖父母、両親、知り合い、友人、連れ合い、そして自分自身に、近寄る死。永遠のお別れは、言葉を交わすのではなく、考えを巡らす機会ばかりくれる。
これまで、数えるほどの死にしか出会っていない。2人の祖父は物心付く前に死んだ。父方の祖父は寸前に、父に"しげちゃん呼んでんか"と告げたという。家族でしげちゃんは私だけだ。だからといって彼が、末期の際に幼い孫を、名指しで呼ぶ必要があったとは思えない。父は、時々思い出した様にその話をする。数人の関わりのある死も口伝で聞いた。寄る年波には勝てない、と感じた。
死ぬべきでない人などいない。いくら死にたくなかろうが、死んで欲しくなかろうが、人は死ぬのだ。でも、Nには死ぬべきではなかった、と感じる。貴方の命は、もう死から10年近く経つ今でも、私よりずっと重い。

 Nは、親同士が友人であったから、最も古い同い年の友人だった。物心ついた頃から顔を知っていた。いわゆる幼馴染みという関係で、親たちからは茶化す様に、「あんた達結婚の約束もしてた」と覚えてもいない話を聞かされる、そんな仲だった。10の時、Nがはめていた矯正をよく覚えている。記憶の中のNは足が早く勝気で、活発な女性だ。
中学で私は上京したから、縁はぷっつりと途絶えた。ただ親からの便りで、親の職である医者を継ぐために猛勉強をしていること、高校で急に中退し、自分の夢であったデザイナーになるために専門的な勉強を始めたこと、高卒試験に受かったこと、など断片的に知っていた。その度に記憶の姿に重ねながら、魅力を増すNに手の届かなさを感じた。
私の大学進学と同じくして、Nが武蔵野美術大学にストレートで入学したことを聞いた。住まいは、西武池袋線上の練馬駅で、その頃東久留米に住んでいた私にとっては20分もかからない距離だった。だがいつでも会いに行ける距離感は、逆に足を遠ざける。それ以上に、英語のBe動詞も理解しないまま、なんの気概もなく進学した強い私の劣等感は、心を弱くした。大学で一皮剥けて、顔向けできる様になってから会いに行こう。「いつか」。

「いつか」は、二度と来なかった。

 大抵の死は、予告などしない。死にたい、というやつほど生きたいのだ、とよく分かる。そんな生きたい、生きていて欲しい人間を、急に連れて行く。それでも、そこになんらかの、作為があってもいいだろう。見えざる手は、10代の私には乱暴すぎた。訃報を聞いた日から、不眠症になった。夜の大半をシャワーの水の中で過ごした。涙が止まらないから、絶えず流したい。心が煮えたぎって、冷ましたかった。Nに申し訳なくて、大学は休まなかった。
命を天秤にかけるなら。Nは私より重いに違いない。彼女のこれまでとこれからを思うと、胸が痛い。人はなぜ死ぬのだ、とじりじりと考えた。答えは出なかったし、今は出そうとしていない。

 その後、数度の旅をして、なんとなく生と死は、始点と終点であると分かった。生まれた時から始まった命の線は、量れる様な重さを持っていない。うねうねと蛇行するから、他の色々な線と交わりながら、ただただ伸びていく。私達が恐れる線の長さは、どう努力しても変えられない。ただその線の色や太さは、変えることが出来る。だから未来など、考える必要はないと思った。ただ今だけ、今だけを正しく、素晴らしく、良いものに。胸を張って、今死ねるといつも思える、そんな生き方を。
交通事故で死んだNが生きていたら、と今でも想像する。もう矯正は外し、歯並びはいいだろう。お母さんに似て、美人なのだろう。足の速さはもうないかもしれないが、賢くて、画材をえくぼに飛ばしたまま、にっこり笑ってくれるかもしれない。私は今でも、Nと私を天秤にかけている。いつまでも、彼女を見上げて、今を生きていく。

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