絶句 杜甫

【本文】
江 碧 鳥 愈 白
山 青 花 欲 然
今 春 看 又 過
何 日 是 帰 年

【試訳】
川の水は緑色になって鳥はより白く見える。
山の草木はより青々として花はより鮮やかに咲こうとするように見える。
今年の春はまたみるみるうちに過ぎていく。
故郷の長安に帰ることができるのはいつになるだろうか。

【解釈、解説】
詩聖杜甫の代表作であり、令和6年の日本においてももっとも有名な五言絶句の人地ともいえる。
杜甫が中国の蜀の成都という場所で暮らしている時期の作。後述する通り、杜甫は激動の生涯を送ったが、蜀の成都での数年間は比較的安定していた時期であったようである。
しかしあくまでも杜甫の悲願は長安で官吏として出世することであり、最晩年までそれを望んでいた。生徒の雄大な自然の情景の中で穏やかに暮らしながら故郷に帰れる日を待ち望んでいることが読み取れる。

【作者】
河南鞏県(現,河南鞏義)の生まれ.祖父は初唐の詩人杜審言.長安南郊の少陵が先祖の出自であるところから,杜少陵と呼ばれる.中国の詩に大きな変革をもたらし,詩史に屹立する最高の詩人として,長く〈詩聖〉と称された.定型の今体詩においても,自由韻律の古体詩においても,それぞれの詩型の特色を生かした清新な作品を著した.7歳にして詩を作り始めたといい,国政への参加を願って,科挙の試験に応じつづけたが,ついに及第せず,官吏としては生涯不遇だった.若いころには江南から山東・河北・河南一帯にかけて放浪し,その間に李白,高適等と交わりを結んだ.都長安では,高官・貴族の邸をしばしば訪れては,詩を献じ,任官の機会を伺った.44歳ではじめて右衛率府兵曹参軍に任命された.安禄山の乱が勃発すると,長安で賊軍に捕らえられてしばらく軟禁生活を送るが,やがて占領下の都を脱出して,粛宗の行在所のあった鳳翔(陝西)に馳せ参じ,その功によって左拾遺の官位を授けられた.しかし,間もなく粛宗の不興を買い,華州の司功参軍に左遷.この時期,杜甫は激動の時代を歩みながら,現実の矛盾を直視して,多くの社会批判の詩を著した.48歳の時,関中一帯が大飢饉に襲われると,官職を辞し,一家を挙げて秦州(甘粛)に向かうが,この地での生活も窮乏をきわめ,同谷を経て,蜀の成都に至り,以後5年余り,ここで比較的穏やかな生活を送った.この時期に旧友で保護者でもあった厳武の下で,工部員外郎の職を与えられたところから,杜工部と称される.だが,厳武の死後,成都を去って長江中流域を放浪し,念願とした長安への帰還を果たせぬまま没.杜甫の詩はめまぐるしく変転する人生の中で,常に絶えざる変革と成長を遂げていった点で,歴代の詩人中でも際立っている
(世界人名大辞典より引用)

【補足】
科挙に生涯受からず、軍事役人として登用されると乱がおこる、恩人の死とやや不遇な生涯を送った。詩人として本格的に評価されるのも死後のことらしい。
そのような人生と道教的な作風も彼の天才的な文祭に影響したのかもしれない

【あとがき】
まさかの半年更新無しで始まったこのnote。三日坊主の比ではない。
調べれば調べるほどわかる科挙の魔境っぷり。

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