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あ・い・う・えっせい

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#部活の思い出

いつも心にサロンパス

 私には身体的弱点がいくつかある。高血圧だったり近眼だったり、それなりにあるのだけれど、骨折した右肘というのも、弱点選手団の旗手を任せられるほどの代表格と言ってよい。  中学校ではバドミントン部に所属していた。部員が多かったためか、伝統的に中一の夏休みまでラケットを持つことはもちろん、体育館にも入れてもらえず、三年生が引退してからようやく体育館でシャトルを打てるようになった。それまで延々と学校の周りを走らされる。不良の包囲網をかいくぐりながら(ときに絡まれながら)走り続け、

掘りたい堀田医院

 最後の夏というのは何も甲子園に限ったことではなく、どんな高校三年生にも平等に訪れるものである。バドミントン部の主将であった私にも、最後の夏は当然訪れるはずだった。が、不幸にもついぞ叶わなかったそれは、思い出の中で宙ぶらりんになっている。  その不幸というのは、練習中、左目にシャトルが当たり、眼底出血してしまったという事故だった。左目の中には血が舞い、視界はやや黒ずんだ。引退試合数週間前のことであった。  高校時代、勉学に励んだ記憶はほとんどなく、バドミントンばかりしてい

煙突ファイヤー、ボブ独走

 校歌というのはやたらめたらと地元の山や川を褒め称える。マイ・ハイスクールの校歌も、岡山三大河川の一つである旭川をたたえていた。  旭川に加え、地元のK山も(大した山でもないのに)賞賛している。そのK山をランニングで登るというのが、我がバドミントン部の習わしの一つであった。バド部の活動の半分くらいはラケットを持たずに行われる体力トレーニングであった。山登りもそういった類のトレーニングで、少なくとも月一回以上は行われた。中学の頃も死ぬほど走らされたが(下記参照)、高校でもそれ