生命とは何か ―篠澤 広『光景』に寄せる小さな随想録
ひとつめ
表題の問いの出典として、もちろん Erwin Schrödinger による著書『What Is Life? The Physical Aspect of the Living Cell』が有名だ。当書の印象的な主張である生物が生きるための「負のエントロピーの摂取」は今でなお形を変えながら非平衡物理学の根底の一部となっており、またそれ以上に、James Watson と Francis Crick の遺伝子の二重螺旋構造の発見はこの著書に強い啓蒙を受けた結果の功績である、という逸話もより一般には広く知れ渡っているものであろう。
私自身もこの問いに対してそれなりに長い時間を費やした身であるが、この問いとの出会いはしかし、今から 11 年前の今と同じ春頃にまた別の切り口によるものだった。それは、 Schrödinger の著書のタイトルをインスパイアした金子邦彦氏による著書『生命とは何か: 複雑系生命科学へ』だ。
金子氏の研究の始まりをおおざっぱに噛み砕くと、様々、そして大量の要素が相互作用をしながら時間経過をしていく現象を数学的な式を用いて記述したモデル(大自由度系・複雑系)の研究であった。氏の研究の始まりより少し前から世界的にカオス理論(いわゆる「バタフライ・エフェクト」の考え方の由来となる分野である)が盛りを迎え、例えば気象現象の研究や、またその理論体系が決定論的な記述にも関わらずランダムに見える現象が現れることから科学哲学の領域にも大きな影響を与えることになる。
大自由度系・複雑系の研究は計算機の高性能化による大規模・高精度なシミュレーションの実現と合わせて、根本的な理論から計算の技術論、さらにはそのエッセンスを取り入れた他分野への研究分野など歴史を振り返ると様々な側面での発展を迎える。そんな中、氏の研究は物理学としての一定の成果を残すと、それまでの研究でも通底していた「生き生きとした」振る舞いへより意識を向け、後に氏が「普遍生物学」と掲げる生物学領域の一部へと舵を切ることになった。
先に紹介した氏の著書はまさにその「普遍生物学」に対する著作時点でのビジョンを纏めた一冊となっている。力学系(dynamical system)の数理モデルを軸に据え、適応や進化、分化などの生命の本質に対して「ゆらぎ」「可塑性」「少数性」「階層性」がもたらす普遍性に対して物理学的な側面から挑む著書およびその著者との出会いは、これまで生物学を各論的で博物学的なつまらない学問と思い込み、流行真っただ中だった情報熱力学(あるいは情報統計力学)にご執心だったミーハーな学生を振り向かせるだけには十分な出来事だった。
先述の通り生命の本質としていくつかの要素を掲げる著書であったが、その中で私は特に「階層性」に興味を持ち、物理学の観点に軸を置きながら 7 年と少しの時間を捧げることになる。
「階層性」の例として一番「身近」なものは、外ならぬヒト一人という個体とそれを構成する細胞たちの関係だろう。普段の生活で気にすることは(おそらく)ないだろうが、我々一人一人の身体は大まかに 60 兆個程度の細胞からなるとされている。細胞を小さな世界の階層、個体を大きな世界の階層と捉えたとき、細胞の世界では細胞を描くためのスケールに合わせた理論(体系)が用いられ、個体の世界ではその世界に合わせた理論が存在する。
また、必ずしも細胞と個体の粒度の階層性で議論をしなければいけないわけではなく、例えばその間に胃や腸などの「臓器」という階層を入れることも可能だ。その場合は細胞⇔臓器、臓器⇔個体の 2 段階の階層性の違い、あるいはより大きな世界の階層が小さな世界の階層からどのように互いをされるのかを議論することになる。さらにこの考え方を広げていけば、小さい世界から大きな世界にかけて、原子、分子、分子集合、細胞内器官、細胞、器官、個体、群れ、生態学的集団(近くにいる動植物同士の関係)、国、星、宇宙(この世?)と様々なスケールの世界が広がる(素粒子レベルの言葉を必要とする生物学は今のところまだない、はずだ)。これらの世界たちはそれぞれが自分自身の理論をもったダイナミクスがあり、かつ隣同士の世界には有機的な関係が存在する。
とにもかくにも生物の面白さの一つは、この階層性を本質的に無視できないところだ。例えば 1 秒前の私を構成する細胞の詳細をレシートで出力したら今現在の私のそれとは異なるだろうが、大きな世界の個体としての私は依然私のままである。この階層性の一種の整合性は捕えようによっては制約のようにも感じるが、だからこそ「生物を描く異なる階層がどのように結ばれるのか」という問いの存在は統計力学の理解を深めている最中の学生にはこれ以上ないタイムリーな刺激になった。
ふたつめ
この生物学への面白さと出会った(そしてさらに興味を深めていく)学生は、ほぼ同時期にブラジル音楽と出会い衝撃を受けることになる。
ブラジル音楽に出会う前は、フレンチポップが好きだからという理由だけで大学一年次に受ける第二外国語をフランス語で選択するほどフランスの音楽のポップスに興味があった。大学から1~2駅の範囲内に多くのライブハウスや大きなCDショップがあったため、物理学大好きくんとして生きる傍ら、いわゆる渋谷系と呼ばれるポップスなども含め、「地域柄」の強い音楽を浴びる時間も生活の少なくない部分を占めていた。ただ、お察しの通り理系所属だったため、必修としての第二外国語は一年次で終わり、二年次からはフランスの音楽にもそれまで以上には積極的に触れらことが少なくなった。とはいえ、もちろん音楽自体に興味がなくなったわけではなく、ラテンの枠を広げていったり、アイリッシュの方面や、ルーマニアなどの東欧のなどなど、いわゆるワールドミュージックの枠でジャンルに縛られず浴びるように体験をつまみ食いしていた。
そのラインナップの中で特段琴線に触れたのが、Ivan Lins のアルバム『Modo Livre』、特に『Essa Maré』であった。
大学入学頃から付け始めた一行レビューのノートにはこの曲に対して「派手ではないけれど、にぎやか」とだけ記し、この曲のトラックナンバー M9 に初見時に気に入った曲である丸印とアルバム中で最も印象に残った曲である星印が重ねられている。
当時のブラジル音楽への認識と言えば、サンバやボサノヴァというジャンルがあって、サッカー番組で流れがちな『Samba De Janeiro』は実はドイツのグループ Belini によるもので、その元ネタともいうべき曲として Airto Moreira の 『Tombo In 7/4』という曲があるというトリビアを頭の片隅に添えていたぐらいであった。
何かと比したり歴史的な引用を持ち合わせて表現するような含蓄も当時は(今もであるが今以上に)持ち合わせていなく、磨かれないままの原体験としてあの一行を書いた後の深呼吸は 11 年経った今でもかすかにではあるが思い出すことができる。高校時代までは楽理・楽典まで含めて主にクラシック音楽の領域に深入りしていたこともあり、ジャズやブラックミュージックというジャンル・カテゴリを受動喫煙的に摂取していた程度ではあったが、それらとの歴史的・文化的な関連性はもちろん感じ取ったうえでそれぞれの楽器たちがより生き生きとしているというか、一定の意味での我儘さを持っているように感じた。
教会音楽を背景に持つカテゴリはもちろん、ポップスでもそれぞれの楽器が曲の中での役割というものを意識してその調和として音楽となる。ジャズにおいてもソロパートというより個が光る場面やアレンジの多様性もあり我儘な要素自体は増えるが、それは曲の構成やステージングの範疇で、やはりその意味で全体における役割社会的な立場と紐づけられる。仮に「音楽をは何か」という問いを立てたとき、高校生~大学1年次では「個人・楽器が集い、アンサンブルとして協同し一つの音楽作品を作り上げる社会的な行為」という側面を強くした回答をしていただろう。
その一方でブラジル音楽には、プレイヤーの集団、アンサンブルであることは同じであるのに、どこかプレイヤーや楽器の立場がより原始的で、その集まりの音楽だというように感じた。煮詰まった現代音楽のように出力される最終形の異形感はないが、そこに現れる和声やリズムのパターンはそれぞれの楽器の自己より尊重され、それが立場的に持ち回りではなく曲全体を通して常にそれぞれがそれぞれとして「生き生きとしている」ように感じたのだ。
先ほどの階層性の話を引用すると、ヒト(個体)とその集まりの集団としての音楽という階層性(個の役割)という音楽体験が主だったところに、一個下の階層性の関係、つまり細胞と個体の関係のような楽器と楽曲の関係性をブラジルの音楽に見出したのかもしれない。
……という思考は当時はできておらず、「不思議でにぎやか」というだけでブラジル音楽を重点的に掘り始めることになる。Antonio Carlos Jobim をはじめとした巨匠の盤を漁ったり、歴史的な観点からアメリカ南部の音楽にも少し手を出したりと掘り下げ始めると、2013 年から遡るにはあまりにも膨大な曲と歴史が積み上げられていた。嬉々としてその山を手当たり次第に切り崩していき、だんだんと体系的な理解ができてきたところ、その約 1 年前に初めて出会った『Move on now!』(りすこ from STAR☆ANIS)がハウステイストなサウンドながらもかなりブラジルの風を汲んでいることを発見し、過去の大家による作品だけでなくその時の、そして当時としては未来に出会う作品(例えば、シンリズム『不思議な関係』)までも、そのブラジル音楽の価値観が縦にも横にも世界に広がっていることを実感することになる。
みっつめ
2010 年以降の邦楽におけるブラジル音楽への愛を感じるクリエイターの代表を少しだけ挙げると、先ほど紹介した『Move on now!』の作編曲を手掛けた田中秀和氏、シンリズム氏、そして今井亮太郎氏、バンド・ユニットでいえば Lamp や Minuano あたりがキーパーソンとして語られるはずだ。
結果として邦楽におけるブラジル音楽の解釈は私の好物中の好物だ。田中秀和氏の音楽性に一時期狂信者的な分析をしたこともあったし、シンリズムは現状一番推しているシンガーソングライターで、今井亮太郎氏が伊藤美来氏に対して『空色ミサンガ』を書き下ろした際にはかつての声優のオタクとブラジル音楽好きとして誇張抜きで 3 日間それ以外の音楽を聴かなかったことがあるぐらい愛している。
邦楽でのブラジル音楽シーンがもっと増えてほしい。そういう願いは個人的な音楽の嗜好性からして自分が得をしたいという思いからも常に持っている。
その願いを持ち続けたまま出会ったのが、篠澤 広『光景』だ。
篠澤広は『学園アイドルマスター』(以下、学マス)というコンテンツに登場するキャラクターだ。学マスはアプリゲームのリリースが明日 5 月 16 日(金)に控えるアイドルマスターシリーズの最新ブランドで、3 月頃から広報活動がかなり精力的に行われていたが、私個人としてはやっていることを認識はしつつもアイマス内の他ブランド(他シリーズ)と向き合っていた。
この MV までの事前情報としては、アイドルを学ぶ学校に通い、そこにはプロデューサー科というものがあるらしい、全体曲もあるが今回の MV 群の公開もあるとおりかなりソロアイドルとしての活動にフォーカスしているらしい、ぐらいの知識をわき見した程度であった。あとは、音楽側のクリエイターを広告として相当押し出していて、3D モデルの開発陣も含めて『IDOLY PRIDE』みたいだ、という印象を持っていた。
さらに正直に言ってしまうと、他のアイドルの MV 公開を一切観ていなかったし、X で流れてくるアイドルと作家情報を見ても youtube でコンポーザー以外の情報を確認しようとしていなかった。そんな中で『光景』に関しては本当に偶然 youtube のプレミアム公開前になんとなくページを開いた。そこで目に入ってきたのが「STRINGS AND HORN ARRANGEMENTS : Arthur Verocai」およびストリングスとホーンセクションの面々の名前だった。
まさかそんなことがあるのか。11 年前に魅了された世界で何度もアレンジャーとしてブラジル音楽の名盤に関わり続けてきた、あの Arthur Verocai が!?
公開 2 分前にその情報に触れ、気味の悪い高揚感に包まれながらプレミア公開が始まった。
この曲に対する一行のメモは、「『いのち』の音楽」だった。
確かに MV のコンセプトとして生命、そして選択(ここでは selection ではなく choice の意)がテーマになっていることは詞も含めて感じられる。
ただそれ以上に、音が、すべての音たちがひしめき合い、一つの音楽になっている。その音像を浴びた瞬間に、自分の身体が数多の細胞からなっていることを半ば強制的に感じ、一つの細胞ごとのダイナミクスを遍く詳細に分離して認識させられて、その相互作用のネットワークまでをも脳とは別のより上位の感覚で認知するような状態に叩き込まれた。そして、MV が終わった後に、一個体として画面の前に座っている状態に戻る。強いて例えるなら、身体を構成する要素に対してプラズマ化のような状態変化を認知・感覚レベルでしていたのだろう。
このような体験ができるのも作編曲の長谷川白紙氏と Arthur Verocai 氏の共作によるところはあると考えている。長谷川白紙氏の音楽はいくつか聴いたことがあったが、改めていろいろなプロダクトを聴き直しているとラベルレスな体験を追究するクリエイターのように見える。詳細な音楽としての解説はしない(というかその在り方がさせてくれない)が、例えばペットボトルの水を買ったとき、どの会社の製品であるかなどのラベルを付けないし、そもそも水であること、さらには液体であることを前提としないモノづくりをしているように思う。正しい表現かはわからないが「体験原理主義」のような思想が通底しているのではないだろうか。
そんな長谷川白紙氏の体験を重視する曲作りに Arthur Verocai の音の重ね方の価値観がもらたらしたのは、世界を構成するすべての構成要素を一種の超越した認知の疑似体験であった。構成要素の分解と、その再編成による新世界の創出。この非言語的な感覚が一気に押し寄せてくる、人によっては畏怖すら感じるであろう光景が篠澤広が見る光景なのだとしたら、その 1 秒 1 秒の情報量に脳が焼き切れてしまうだろう。しかし、どの生き物も熱を持った細胞がこんなに賑やかにひしめき合って一つの個体として存在を成しているといて、それは誰にだって"認知"が可能なのだと訴えかけてくるような曲だ。
そして
初見時はそのサウンドの凄まじさに圧倒されてしまったが、改めて落ち着いて詞にも向き合うと、この曲にある次のようなフレーズはその感覚の答え合わせになっているかもしれないと思わせてくれる。
MV で象徴的に描かれているモチーフには、右から左へと分岐していく枝(蔦?)の表現がある。様々な服や娯楽の分岐を選び取っていく篠澤広がアイドルに出会う過程を描いた表現であろうと見えるものだが、これにより想起されたのは Conard Waddington によるエピジェネティックな地形描像のイメージだった。
幹細胞は周囲の細胞の相互作用や内部の化学反応のばらつきにより、さまざまな役割を持った細胞へと分化していく。最近かどうかは怪しいが、一時期話題になっている iPS 細胞はこの幹細胞のセンセーショナルな例であり、その重要な点は地形を下から上に巻き戻すような「若返り」ともいえる脱分化現象を人間の細胞で再現できたことにある。
篠澤広という人物において、この MV の表現はアイドルに挑戦するという脱分化をしたときに見える景色そのものであったのではないかと思う。この MV をきっかけに現時点で公開されている篠澤広という人物を調べていくと、すべてがうまくできてしまい、誰からも褒められてつまらないと感じているということを知った。学問方面ではどうやら物理や数学の方面で大学を卒業していて、苦手なことに挑戦するためにアイドルをしにきた、とのことだった。
できないことが楽しい、という感覚はあまりにも身に覚えがありすぎる。大学に入ってからの 9 年間、そしてその後も「わからないことが楽しい」というブレーキをどこかに置いてきてしまった好奇心に私の人生は動かされている。知らないことを知りたいという知識欲ではない。理解に落とし込めたタイミングの脳汁の出方はまあ嫌いではないが一瞬だ。自然科学に向き合うということは、その 99% 以上がわからないという状態にあり続けることだ。
言葉にするまでもなく当然だった感覚をどうやら(というよりもちろん)篠澤広も持ち合わせていているなと思ったら、どうやらつい最近公開された事前プレイの記事によるとその感性は尖りも持ち合わせているようだ。実際その尖りがアイドルを続けていくための鍵爪のようになっているようにもみえるが、アイドルをできない自分でいられるからという見方以外の価値観で捉えてくれるようになったときが本当のアイドル・篠澤広の始まりなのではないかと思う。つまり、篠澤広が「アイドルとは何か」という問いを掲げる瞬間こそが真のアイドル・篠澤広の始まりだと思うのだ。
ちょうど 11 年前の私は生物のことを物理学で真面目に記述するにはあまりにも複雑すぎる対象だ、という面白さから飛び込んだ。しかし、少なくともそれから 3 年が経った頃にはそれが徐々に物理屋が見た生物のわからなさではなく、純粋に生物学としての面白さへと変容していった感覚があった。
もちろんこの回顧は勝手にかつての自身を篠澤広に託そうとしているだけで、もちろん篠澤広がそうなるかどうかはわからない。私自身彼女のような優秀さは当然持ち合わせていないし、なんならそうならない方が自分が感じられなかった世界を感じられるので嬉しいまである。篠澤広の置かれる環境、初星学園の人々(特に補修組(?))や業界人、ファン、そしてプロデューサーとの出会いにより、仮にかつての私と近い感性を持ち合わせたとしても彼女の見える光景は全く異なる軌跡を描いていくことだろう。
この期待がまさに今の私の好奇心を手づかみで揺らす。知りたい、見たい、わかりたい。学マスリリース前日に篠澤広『光景』を改めて目の当たりにしたときの気持ちはその 3 つの構成要素だけで作られている。
アイマスの他シリーズにおいてもそのアイドルを応援するプレイヤーを「プロデューサー」と自称や他称する文化がある。私自身はなかなかこれまで見て知ってきたアイドル達に対してそのような立場を自認できたことがなく、これからもしばらくはできるようにならないのだろう。しかし篠澤広に見えている世界に対する好奇心がただただ抑えられない。
明日から新たに駆動されるカオスの紡ぐ夢の中で、一体私は何に出会うのだろうか。この期待を胸に、その世界を構成する小さな一つの要素として、これから大きく育っていく大樹を見守っていきたい。
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