【私的メモ】中平卓馬の人気

中平卓馬プロフィール

中平卓馬ポートレイト 1968年頃 撮影:森山大道 東京国立近代美術館 ©Daido Moriyama Photo Foundation

1938年東京生まれ。1963年東京外国語大学スペイン科卒業、月刊誌『現代の眼』編集部に勤務。誌面の企画を通じて写真に関心を持ち、1965年に同誌を離れ写真家、批評家として活動を始める。
1966年には森山大道と共同事務所を開設、1968年に多木浩二、高梨豊、岡田隆彦を同人として季刊誌『PROVOKE』を創刊(森山は2号より参加、3号で終刊)。「アレ・ブレ・ボケ」と評された、既成の写真美学を否定する過激な写真表現が注目され、精力的に展開された執筆活動とともに、実作と理論の両面において当時の写真界に特異な存在感を示した。
1973年に上梓した評論集『なぜ、植物図鑑か』では、一転してそれまでの姿勢を自ら批判、「植物図鑑」というキーワードをかかげて、「事物が事物であることを明確化することだけで成立する」方法を目指すことを宣言。翌年、東京国立近代美術館で開催された「15人の写真家」展には48点のカラー写真からなる大作《氾濫》を発表するなど、新たな方向性を模索する。そのさなか、1977 年に急性アルコール中毒で倒れ、記憶の一部を失い活動を中断。療養の後、写真家として再起し、『新たなる凝視』(1983)、『Adieu à X』(1989)などの写真集を刊行。2010年代始めまで活動を続けた。2015年逝去。
1973年、自己批判を機に、それまでのプリントやネガの大半を焼却したとされていたが、2000 年代初頭、残されていたネガが発見され、それをきっかけとして2003年には横浜美術館で大規模な個展「中平卓馬:原点復帰-横浜」が開催された。
中平卓馬 火―氾濫 - 東京国立近代美術館 (momat.go.jp)

森山大道との出会い

彼らは1964年の晩冬に、写真家の東松照明(当時34歳)の紹介によって知り合いました。当時、雑誌編集者であった中平と、写真家としての活動を始めたばかりの森山は、同い歳(当時26歳)であり、互いに逗子に住んでいたことから頻繁に会うようになる。

トランジスタラジオの梱包工や翻訳の仕事を経て、雑誌『現代の眼』の編集者として辣腕をふるっていた中平を、写真の世界へと導いていった同志と言えば、東松照明と森山大道。東松の提案と指導によって、現代の眼にグラビア頁を新設。それを機に高梨豊らと出会い、最終号では「柚木明」の名で写真を発表するに至りました。1964年には、東松の媒酌で結婚、そして東松よりアサヒペンタックス一式をプレゼントされています。そのカメラを片手に街を彷徨っていた中平に対して、写真技術の基礎を伝授したのが、森山大道であります。二人の協業は、以降の「プロヴォーク / Provoke」へと発展していき、日本の写真史に名を残すこととなった。

雑誌『現代の眼』の編集者出身である中平は写真家、東松照明の紹介で知遇を得た森山大道が撮影したホルマリン漬け胎児の写真を組み、「無言劇」掲載した。この記事に注目したのが寺山修司だった。
中平卓馬が写真界に与えた影響とは──今月のアートを深掘り | GQ JAPAN
鈴木芳雄

中平卓馬人気

①今だに続く『PROVOKE』の人気?

代表的なアレ・ブレ・ボケが写真経験の長短に関わらず、イメージとしてわかりやすい。特に出版背景も、どこかの企業の企画でなく、写真家集団の同人誌で発刊されたこと。これまでの写真表現とは違う、かけ離れた強烈なイメージが伝説的となり国際的にも評価されていることから、ストーリーとしても人気がある。
更に、3号だけという少なさに、いさぎよさのイメージもあり、いまだに続く人気ではないだろうか。

②森山大道の盟友としての位置付け?


森山大道直伝の写真の基礎でイメージの切り取り方が『カッコいい』ひきつけられる。伝説的なコンビでありながらも、中平卓馬のアイコンとなる写真は少ない。
また、森山大道だけでなく、多数の写真家からも認められる謎多き存在が人気となる入り口ではないだろうか。

③自らの否定?

これまでの作風を否定するスタイル
哲学的な問答を繰り返す論調が、より理解したいと思う好奇心となる?
また、理解しづらい『なぜ植物図鑑か』の存在も大きいのでは?
作風も、横から縦が増え始め、パリ青年ビエンナーレ時と比較しても明確に増えており、意識不明から復帰後は、縦写真が中心となる。
・なぜ植物図鑑か
『イメージを捨て、あるがままの世界に向き合うこと、事物を事物として、また私を私としてこの世界内に正当に位置づけることこそわれわれの、この時代の、表現でなければならない。』
自己解釈ですが、先入観や固定観念を捨て、物事を本来の姿でとらえる事だと思いますが、見たままだけを評価する事とは違い、自己認識や、物事をより深く本質的な理解までしないといけない事だと思います。

芸術=イメージ「芸術作品に当然のように期待されているもの」イメージ=(作家に先験的に備わる)作家たる個が持つ世界についての像。
芸術作品にはまずイメージがあり、その作家の持つイメージが評価されている。これはルネッサンスに始まる個の認識から近代まで当然のように信じ込まれているものだ。作家は自己が持つ純粋なイメージに従って世界を見、世界に触れることが要求されていた。
『世界は常に私のイメージの向こう側に、世界は世界として立ち現れる、その無限の出会いのプロセスが従来のわれわれの芸術行為にとって代わらなければならないだろう。世界は決定的にあるがままの世界であること、彼岸は決定的に彼岸であること、その分水嶺を今度という今度は絶対的に仕切っていくこと、それがわれわれの芸術的試みになるだろう。それはある意味では、世界に対して人間の敗北を認めることである。』

④急性アルコール中毒からの復帰と作風の変化


パリビエンナーレ
15人の写真家展 氾濫

先にも書いたが、縦構成が増えた。
後半はもっと縦写真が増え、撮るものは明確になったが、過去の中平卓馬が撮りそうな写真も見受けられる。



補足


【森山大道】
55年、大阪市立工芸高校を中退した森山は、フリーのグラフィック・デザイナーとして活動するようになる。この時期の経験も、のちの写真に活かされることになる。森山のスナップ写真は、一見、荒々しく不安定な構図に見えるが、デザイナーとしての経験を活かした精妙なバランス感覚によって、隅々まで神経を働かせて撮影・プリントされているのだ。

机の前に座りきりでマッチ箱やカレンダーのデザインをすることは、当時の森山には耐えられなかったようだ。仕事を通じて、写真家たちと接することで、写真撮影に強い興味を抱くようになり、60年に大阪の岩宮武二スタジオのアシスタントとなった。岩宮スタジオ時代には、ウィリアム・クラインの写真集『ニューヨーク』(56年)に強い衝撃を受け、日雇い労働者の街、釜ヶ崎のドキュメントで知られた先輩の井上青龍(せいりゅう)から、路上スナップ写真の実際を学んだ。そんな中で、写真家としてもっと大きな舞台で活動したいという思いも膨らんできた。
森山大道—路上体験を「野良犬の眼」で視覚化する写真家 | nippon.com
飯沢 耕太郎

岩宮スタジオ
岩宮武二
●岩宮武二(いわみや・たけじ/1920–1989)

1920年、鳥取県米子市に生まれる。1938年、鳥取県立米子商蚕学校商業科(現・鳥取県立米子南商業高等学校)卒業後、阪急百貨店に入社。その後、プロ野球チーム南海(現・福岡ソフトバンクホークス)に入団。二軍投手をつとめるが体をこわし退団。1940年、丹平写真倶楽部に入会。1941年、応召して満州に赴く。1945年、復員し、大阪でフリーランスの写真家となる。1955年、岩宮フォトスを設立。関西を拠点に広告写真家として活躍する一方、精力的に作品を発表。1966年には大阪芸術大学教授・写真学科長に就任し、後進の育成にも尽力した。1989年、肺がんにより逝去。享年69。主な写真集に『かたち 日本の伝承I・II』(美術出版社、1962年、日本写真協会賞年度賞)、『京 kyoto in KYOTO』(淡交新社、1965年、毎日芸術賞)、『宮廷の庭Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(淡交新社、1968年、芸術選奨文部大臣賞)、『アジアの仏像』(集英社、1989年、日本写真協会賞年度賞)がある。

紹介文
鳥取県米子市に生まれた岩宮武二は、戦後、大阪に居を構え、生涯を通じて大阪を拠点に活動した写真家です。関西随一と謳われ、広告写真家として、また写真作家として数多くの作品を残し、森山大道らをはじめとする後進の写真家に大きな影響を与えました。土門拳、林忠彦、秋山庄太郎らと親交を重ねた岩宮は、アンリ・カルティエ=ブレッソンやエルンスト・ハースら海外の写真家とも交流を深め、また写真だけにとどまらず、書や俳句にも世界を広げた人物でした。
「日本の美を追い求めた写真家・岩宮武二 京のいろとかたち」写真展 - SHOOTING(シューティング) (shooting-mag.jp)







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