ならば愛を込めて
桜の季節過ぎたら遠くの街へ──。
個人は唯一無二の生物であるから、他者の苦しみを同等に理解できる人はいない。それでもどうしたって理解し、寄り添いたい苦しみというものが時々ある。
愛おしい対象に限るが。
それを相手が感じ取ったときに私を「優しい人」だと思うのならば、そういった意味では贔屓にしている方々にとって私は優しい人であると言い切っていいのかもしれない。
動物や虫、自然に対して平等の優しさを持つことができても、他人に対して平等な優しさを持つなんてことは誰にもできない。マザーテレサやガンジーにだって無理だ。偽物の愛情など瞬時に見抜けるに決まっている。色みたいなものなのだ。そうだ、お前の手は真っ黒に穢れている。
死を望む人がいる一方で、死の選択を知らない人がいる。彼らは決まって頑張れと言うが、そんなものは優しさでもなんでもない。応援とは名ばかりの重圧でしかない。軽率に頑張れなどと言うその手で首を絞めていることを少しは理解したほうがいいと思うが、死の選択を知らない人にとって、それは一生を掛けても不可能なことだ。
穏やかな水面は小さな雨粒にも動じる。落ちたとて水面の平穏を保てるのは散りゆく花弁くらいのものなのだ。
生きるために悪事を働き、人を傷つけるくらいなら生きるのを諦めたほうが余程まともではないか。
桜並木が緑一色になる。カランコロンと音を堪える飴玉をガリッと割る。揺れる陽炎の向こうに暗い梅雨空が見える。その向こうにモノクロの夏が見える。四季が移ろい、死期に虚ろう。
「最後の花火」で終わる夏が恋しくなった。
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