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ぶれる健康に関する社会的決定因子?

先日のchatGPTとの議論では、実際に人間と議論した時と同じような議論の展開になった。そう言う教師的データが過去に多いのだろう。

すなわち、健康に関する社会的決定因子で「つながり」を語るひとたちは、その重要性を語る時は、健康をQOLのような多義的な存在として紹介するが、それを裏付ける根拠を示す時は、健康を病気でないこと、あるいは予防の枠組みでのデータを出してくるのだ。

彼らはしばしば二枚舌だ。

どうしてこうした定義が揺れる論説を自信満々で出せるのか疑問だ。それはもう少し謙虚ならば共感できるのにという意味も含んでいる。

集団の一側面に関する因果関係という意味でかろうじて理解できたとしても、さらにそれを臨床(ミクロ)レベルにまで応用させようとするのは、相当な飛躍とはいえないだろうか。

あくまでも、気持ちはわかるのだが・・・。

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