見出し画像

社会的処方と地域医療、そしてソーシャルワークは、互いの違いと共通点を整理して、ともに未来をつくる必要があるでしょう。

先の社会的処方でもそうでしたが、前提となる定義に厳格にこだわることは、私は普通のことと思っています。

特に研究分野では当たり前だと思います。しかし、あえてなぜか?と問われたら以下のように答えます。それは前述の理由のほか、個別のなんちゃってな取り組みならまだしも、政策や大きな事業に影響を与えるようになればなるほど、前提となる定義の違いは副作用につながる大きな問題だからです。


昨今、あまりにも安易に政策や「横展開」に踏み出す輩が少なくないように思います。勿論、そのことの危険性を理解する必要があると思います。当然、当事者は良いことをしていると思ってやっているだろうし、そのこと自体を完全否定するつもりはありませんが、それにしても安易すぎる動きというものも少なくないように思います。自分たちのしたことの全てに責任を持って取り組むのが専門家として臨むプロジェクトリーダーと思いますし、そうであるなら当然慎重になると思います。自分たちのしたことが何につながるのか、それを予測しようとしない人たちはリーダーの資格はないと私は自分に言い聞かせています。それは直接的でなくても、「使われる」ことによる間接的な動きにも言えると思います。

また、詳細は割愛しますが、あまりにも先行研究や過去の取り組みを調べもしないで、さも新しいものかのように提案する人たちも少なくありません。これはとても恥ずかしいことだと思いますし、先行研究に対しても大変失礼な行為と思います。

私は現場のチンピラですが、それでもこの程度の注意はするべきと思っています。私の話が細かくて面倒臭いのはそのためと思います。勿論全てできているわけではありませんので、ご批判頂きたく存じます。

他方で、それで飯を食おうとしている人たちがいて、それはそれでそうせざるを得ない時があることも理解しています。特にピンで活動している社会的起業した企業や団体、NPOなどがそれにあたります。資金や注目をあつめる稼動をするには、ある程度見栄えも考えなければ継続できませんし、手柄をとらなければならないこともあるでしょう。しかし、そのことは地域にとってはマイナスであることも少なくありません。特に見た目的にひとり勝ちの構図をつくれば、むしろ社会の分断を産むことにつながります。

心情的に、それでもそうせざるを得ないことは理解したいところではありますが、私自身も批判を甘んじて受けることを前提に互いにノーガードの議論を深めていくことも必要と思っています。

ともに意見をぶつけ合い、分野の壁や「日本版」という前例を一蹴するのに便利な隠れ蓑から出てきて、ともに未来をつくりたいものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?