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通いの場への参加と要介護状態・・・

かつての和光モデルと比べると比較的望ましい取り組みのようにも見える…見えてしまう。

私は公衆衛生学の専門家ではないので、現場で実践している立場からコメントしたい。

つまらない話だが、私は松戸が大好きで、時々、足を運んでいる。松戸は良い街で、駅前の店でも比較的自由な会話がある。つまり、松戸が「大都市モデル」として取り扱えるかについては検討の余地がある。たしかに人口は多いけどね。

しかし、保健を含む他の分野では、こういう取り組みは以前から行われていたものだし、あえてそれを介護予防や医療経済的発想で検証したことにはある程度意味があるということだろう。

社会参加する人たちの要介護状態が低いことに、何か目新しさがあるのだろうか。むしろ比較すべきは参加者と非参加者ではなく、コントロールとなる他の市町村ではないだろうか。

相変わらず発想は措置的で、どうしても介護予防効果として出したいのだろう。そのこと自体は責められることではないが、観察期間が3年とされているが、それで十分なのだろうか。

先日、指摘したソーシャルインパクトボンド(SIB)を原資に使っている?ことは比較的新しい点であり、関心のあるところだが、投資してくれたのは誰だろうか。ぜひ確認したい。

こうした枠組みは社会保障分野では社会的投資戦略として認識されていて、イギリスなどで行わられている。しかし、イギリスと日本では公共に関する考え方も、市民同士の関係性も全く異なる。この違いを調整するのはソーシャルワークなのだが、それを市民に任せているならば、私の理解では必ず「排除」などコンフリクトが起きているはずだ。

特にイギリスの社会投資戦略は世界標準とは異なり、「第3の道」と言われている。それは国は機会を作ればあとは自己責任という「機会の平等」を重視している点だ。政策の結果、介護予防効果が得られたとしても、そうでなくても。さらに、そこでどんな副作用があったとしても、あとは個人の問題であると言う発想だ。

私個人の意見としては、それでは本来の意味の「投資」にならないと考えている。社会的投資戦略の投資とは、少なくとも介護予防のような小さい話ではないからだ。この点はまたどこかで書きたい。

さらに、投資元があるなら、必ず適応基準があるはずだ。問題はいつもそこにある。そもそも、この研究で言う「住民主体」は、本来の住民主体ではないだろう。詳しい運営内容によっては副作用が懸念される。そして、それを市民側に丸投げしている可能性が想定される。

そもそも市民活動は健康のために行うのではなく、特に「社会」がないと言われている日本で社会を使うと言うことは、「世間」を使うと言うことと同義になる。世間は地域共同体に近いもので、一定の「空気」が存在する。内部では排除が発生している可能性も想定される。

つまり。残された共同体に負荷をかけている懸念がある。

むしろそこが本当の意味でのまちづくりのチャンスなのにと残念に思う。少なくとも幸手や杉戸では、とても重視している注意点だ。

むしろもったいない、ああ、もったいない。

この研究は比較的望ましい枠組みで行われているが、SIB以外、決して新しい取り組みには見えない。

措置的な発想で政策に利用されたり、誤った「住民主体」への医療従事者による熱狂の原因にならないことを願っています。

とりあえず思いついた点を記録。

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