開拓、空港、闘争 三里塚での出来事
成田エクスプレスから見える風景が気になって、千葉県成田市まで自転車で行くことにした。
上野駅から成田空港までの道のりは、都市から一転、田園が広がる農村を駆け抜けていく。その風景を見るたびに、不思議な感覚になる。
上総と下総の境となるこの地帯、かつては天皇含め政府御用達の牧が広がる台地であった。
谷津には田圃があり、ここら一帯は「古村」と呼称されている。そして、古い村の隣には新しい村がある。この地にも開拓民の姿があったのだ。
戦後、ここら一帯は、満州や沖縄からの引揚者らを始めとした開拓地として国から払い下げられた。一反あたり当時の価格で80円、ショートホープ缶2個分で手に入ったという。
しかし、ここも武蔵野台地と同じく、関東ローム層に覆われた不毛の土地。簡単にはいかなかった。多くの脱落者を生み出しながらも、ようやく農業が軌道に乗り始めた頃に、ある出来事が起こった。成田空港の造設だ。
60年代の高度成長期に入り、羽田空港は10年を待たずしてパンクすると予想された。そこで、国を挙げての事業としてこの地に巨大な国際空港をつくることを決める。
しかし、そこには地元住民へのコンセンサスがとれていなかった。それがこの地に「三里塚闘争」と呼ばれるまでに問題が泥沼化してしまった最初の原因となった。
国は、当時としては破格の金額で土地を買い取るといったが、いくつかの住民たちは納得いかなかった。自分たちが蔑ろにされた、という強い憤りは、金では簡単には解決され得なかった。
金で解決できず説得にも応じない農民に業を煮やした空港側は、不意打ちで3つのクイをこの地に打つことを断行する。それがまた住民たちの火に油を注ぐことになった。
そこからはまさに泥沼。住民は竹槍をにぎり、糞尿を投げ、スクラムを組んで抵抗する。機動隊の数も増員され続けた。
時代は60年代後半、学生運動が勃興したころ。この小さな農村にも新左翼と呼ばれる若者たちが押し寄せる。呉越同舟、次第に過激さが増し、空港側と農村側で互いに負傷者や死者まで出てしまう。
長期化した反対運動により、当初の予定より大幅に遅れたが、最後は空港側が押し切った。成田空港は1978年に開港した。
反対運動は、一方は分裂・縮小、一方は和解、一方は過激化しながら活動は現在までつづいており、2019年までに発生した成田関連のゲリラ事件は511件にも上るという。
三里塚周辺をゆっくりと走る。この静かな田園と畑の風景に、竹やりを持った農民の姿がつい45年ほど前にあったのだ。
満州から帰った次男三男は故郷にも居場所はなく、この地に移り住んだ。昼は古村で働き、夜は月明りで自分の畑を耕したのだという。
滑走路の下には、彼らが赤土から育てた黒い土が眠っている。