見出し画像

修善寺サイダーと作った人のこと

修善寺サイダー

修善寺サイダーが作られた背景

代表の土屋が、地元の伊豆修善寺に恩返し貢献したいという想いを決意したことにある。彼は野球で、高校からは実家を離れたこともあり、野球を通じてお世話になった地元の方に元気を与えたいという想いを抱いていたが、その実現には至らなかったと感じている。年齢も30半ばとなり、一度は諦めた地元を元気にする想い、何か恩返しがしたいを実現する為に、地サイダーの販売を開始した。

なぜサイダーなのか?

子どもからお年寄りまで、みんなが親しめる食べ物や飲み物が良いなと試行錯誤していく中で、地サイダーで街おこしをされている事例をいくつも見て決断した。本人がサイダーが好きということもある。

修善寺サイダーのこだわり

日本一の地サイダーブランドを作るということ。味はシンプルなサイダー味だが、爽やかな香りと上品な炭酸にこだわり仕上げていると代表の土屋は自負する。
なぜシンプルな味にしたのか?主役はサイダーではなく、修善寺の街であり、そこに暮らす人であり、訪れてくれる人であるからである。

ラベルデザインについて

サイダーのラベルは、修善寺の、そしてネジをイメージして作られている。ネジはサイダーが修善寺の街と人、人と人を繋ぐシンボルになって欲しいという願いが込められている。



人物

DARA代表 土屋秀樹とは

静岡県伊豆市牧之郷(旧修善寺町)出身1983年生まれ。妻と二人の息子がいる。ソフトバンクの創業ビジネスであるICT流通の法人営業に携わりながら、副業として修善寺サイダーを商品企画し、その卸販売を行うDARAを立ち上げる。その後、東大発ベンチャーのリーガルテックカンパニーのセールスを担当している。野球が好きで野球探検家としても活動中。地元への貢献をテーマに奮闘している。

修善寺南小学校時代

父親の影響で野球のプレーやルールは知っていたが、小学校では野球チームには属さずサッカーチームに所属する。ポジションはFW。他にもスイミングスクールやボーイスカウト、書道教室に通っていた。野球は、家の前の壁で毎日のように壁当てをしたり、友達と遊ぶ程度であった。

修善寺中学校時代

スイミングスクールに通っていたが、水泳は得意ではない為、修善寺中にはプールがなく体育で水泳がないことと、入学前年からマラソン大会がなくなったことにラッキーだと思っていた。
部活は野球部に所属していた。当時はサッカー部がなかったがそれが理由ではなく、野球が好きだから入部している。当時の野球部は人気で、一学年25名前後が在籍していた。最高学年が大会に出る方針となっていた為、最高学年になるまでは何をしていたのかあまり記憶がない。レギュラーとして静岡県東部地区大会で優勝し県大会に出場している。ほとんどの試合が1番センターしての出場だった。

静岡高校時代

静岡市内で下宿生活を開始する。中学の野球部のエースだった後藤慎之介も同校へ進学し共同生活をしていた。高校1年の夏にチームは甲子園出場する。当時のエース髙木康成さんはドラフト2位で近鉄へ入団、その後オリックスや巨人で主に中継ぎとして活躍した。また同級生の深田拓也(投手)は中京大学進学後に巨人に入団。1学年後輩の増井浩俊(日ハム→オリックス)はWBC日本代表や日本シリーズでも活躍した。
最終学年ではベンチ入りをするが控えメンバーであった。チームは春季県大会で優勝し東海大会ベスト4の実績を残した。夏の選手権県大会は静岡市立高校に延長サヨナラ負けとなりベスト4にて甲子園出場は叶わなかった。
学校行事の一つである体育祭において、1年と3年時に100M走、2年時には200M走でそれぞれ優勝している。2年時の200M走は大会記録を更新した。この行事は、学年別ではなく学年混合で行われるため、1年時は野球部3年生の先輩に配慮して種目を100Mにしている。
授業のスピードについて行けず、2年時は進級に関わる追試を受けるところまで成績が落ち込んだ。人生における底辺がこの時だと思っている。頭は使い続けないと思考停止することを思い知る。

中央大学時代

商学部経営学科に入学する。何か新しいことをしたいと思い、ダンスサークルに入るがレベルが高く、周りのノリの違いも感じ半年ほどで退会する。もう野球は辞めようと決めていたが、結局のところ野球くらいしか得意なことがなかったので野球サークルに入るが、野球に対する価値観の違いを感じ3年時に退会する。大学1年の時は大学生活に馴染めずほとんどバイトばかりしていた。
大学2年の時に、静岡県高校野球選手権大会の母校の決勝戦を観戦し号泣する。高校時代の後輩が甲子園出場を決めた瞬間を見て、無念がはれた気持ちになったからだと振り返っている。
大学3年時に入った御船ゼミの仲間と意気投合し大学生活の後半は楽しく過ごせたように感じている。恩師である御船洋先生は商学部の学部長を務めた経験もあるが、偉ぶることもなく寛容な人である。
高校の野球部の同級生である星貴博も同大学で、彼は硬式野球部に属していた為、頻繁に会うことはなかったが定期的に酒を飲んでいた。また野球部のセレクションを受けていた為、硬式野球部の部員とは何人か接点があった。セレクションの結果は不合格であったが、振り返ってみると貴重な経験となっている。

社会人時代

就活の面接に1社しか受からず、何かやりたいこともない為、そこに行くしかないと思い、業用厨房機器メーカーへ営業として就職する。勤務地が名古屋だったが、まったく土地勘がなく地名を覚えることからスタートした。車でのルート営業にて、時には機器搬入にてトラックも運転していた。このまま何年もこの仕事を続けるイメージがつかず、1年で退職する。
転職活動は退職してから行ったため、約3ヶ月間無職の状態となった。お金もなく、何もしてなくても腹が減るという状態が辛かったという。
その後、IT関連の流通企業に就職が決まり現在に至る。会社の面接時に履歴書のダメ出しをものすごくされたことをよく覚えている。

野球探検家

野球が好きだが、草野球チームで野球をしているわけではない。まして、指導者でも研究者でもない、スクールの先生でもトレーナーでもない、特定球団のファンでもない。自分なりに野球を深堀っていくのが好きなので、探検家と名乗ることにしたと話している。おそらく日本唯一の野球探検家である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?