開放している自宅居場所にて感じたこと

先日の出来事について書く。

その日、地域の子ども達に開放している僕の家(しゅわわ邸)ではさまざまな物語が生まれた。
なのでエピソードは細かく分けられ断片的なものとして僕のなかに記憶されている。

最近よく遊びに来てくれるハタチボーイ。

この日は朝9時から夜9時までたくさんの子ども達とふれあってくれた。
このうち最初の1時間と終わりの2時間はたまたま僕とふたりきりで過ごす時間だったように思う。

彼のプライベートな話にはここで触れないが、その始まりと終わりの数時間が、まさにキッズプラザ大阪で僕が味わった始まりと終わりの時間に似ているなと感じた話をする。


10年ほど前、僕は大阪市北区にあるキッズプラザ大阪で働いていた。その中のひとつの部屋(コーナー)に、創作工房と呼ばれるアートする部屋があって、来館する子ども達とアートのワークショップをするのが僕の仕事だった。
(3名のスタッフで交代しながら単発のワークショップを回していくというシステム)

その、始まり(開室準備)と終わり(ふりかえり)の時間が、ハタチボーイと過ごしている時に僕の中で重なった。


なんて表現したらいいんだろう。


ハタチボーイは一日しゅわわ邸にいて、ヘトヘトになりながらも毎回楽しそうにしている。(その証拠に彼は自発的に来週もまた宝塚から電車でやって来るw)

ただ、もちろん経験が少ないから、体力や気力は奪われがちだ。
それと、ここでの出来事は日常にあまりないことばかりだから、僕と子ども達の向き合い方も含め、彼には戸惑いというか、異文化と出合った時のような衝撃や葛藤があるように思う。

キャパから溢れたたくさんの情報を、言語化して咀嚼して処理する、貴重な始まりと終わりの時間。
それは限りなく主体的に自問自答できる、何にもしない空白の時間。

ハタチの彼にとってとても有意義な時間なんだろうなと、(偉そうにw)僕は感じている。
(キッズプラザ大阪の時、先輩方や同僚の視点に僕も学んだから)

逆に僕には、彼と向き合う時には自分が神様に試されているような緊張感がある。


基本的に子どもが苦手というかそもそも人づきあいが苦手だというハタチボーイだが、しゅわわ邸のことはめちゃめちゃ褒めてくれる。
こんな場所ないっすよ!みたいな。

いいなと感じたものに対して素直に時間を注げるのは、若さゆえの特権なんだろうなと思う。
僕もそうありたい。


この場所の価値は、この場所を味わった人にしかわからない。
居場所ってそういうものなんだろうなとつくづく。


ご興味ある方はいつでもご連絡ください。

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