大学レポートのコピペ
障がいのある人
本来ひととひとが分かり合うためにはいくつものコミュニケーションがあり、オーダーメイドである関係づくりなのに、「障がい」を機械的に、教育的に教えられるが故に思考することがこれまでなかったと感じる。ひとが置き去りにされている、と同義でありマジョリティがマイノリティのために作り出した「多様性を理解する」という類の乾いたスローガンを達成した気に陥っているのかもしれないと考えた。そもそもひととひとが理解しようとしながら接していくことが大切であるのに、ひとに「障がいがある」という自己紹介が加わった時点で「障がいのあるひと」に変わり、社会環境や受けてきた教育の影響を大きく受けて私たちは無条件に「障がいのあるひと」を理解し、満足する。「障がいのあるひと」の理解できない状態や部分があるという議論や態度はタブー視され、私たちは「障がいのある人」とその人に向き合う自分との対話を辞める。
なんとなく、北欧
そうはいっても、マジョリティとマイノリティに二分した議論がなくなることはおそらくないであろう。それはジェンダー、人種、障がい、年齢、職業などありとあらゆる場面で考えられる。「持ち家か、賃貸か」というようなよくある議論でも、メディア的に、また商業的に二分して対立させる社会構造であるのだから。ここのヒントは直感ではあるが、街づくりや都市政策、公共政策などにあるのではないかと考えた。二分どころではなくあらゆるところでひとやモノを分けて考えざるを得ない側面がある一方で、平等や差別への優しい在り方を模索している分野だからである。話が飛躍するが、そういった優しい議論を展開するための素地は北欧教育の「フォルケホイスコーレ」にあると考える。「人民のための学校」として教育哲学者グルンドヴィが始めた公の教育政策・制度である。人々が対話を重ね、機械的でなく、日本語の辞書では解釈されないであろう「多様性」や「理解する」の意味が彼らの哲学には存在しているのではないだろうか。私がフォルケホイスコーレの教育システムを体感した際には(日本で展開されている北海道東川町のプログラムだが)、答えを急ぎ過ぎず、分かり合おうとし過ぎず、それでも対話をすることを楽しむ姿勢がそこにはあった。考える素地が整うため、少なくとも論文中で指摘されていたような教育的な課題が解決される感覚がある。
論文を読んで、障がいを飛び越えて「ひとをわかる」というテーマに興味を抱いた。頭の中で断片的に、感覚的に出てきた「公共政策」「対話」「フォルケホイスコーレ」などのワードを深めて論を展開できれば、楽しそうだなと感じた。
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