映画の“語り手”に関する誤解を解く
小説と違って、映画は物語を展開させるための“語り手”を必要としません。これはテレビドラマでも同様です。映像と音によって出来事やそのディテールを次々に“見せる”ことが、フィクション映像作品の基本なのです。劇映画にナレーション(voice over narration)が導入されるのは例外であり、しかも全編にわたって絶えず“語り手”の声が聞こえる映画やドラマというのは、まずありません。現代の映像作品の“語り手”について云々できるのは、ナレーションが導入されている場合だけなのです。
例えば、『時計じかけのオレンジ』(71)、『バリー・リンドン』(75)、『タクシードライバー』(76)には“語り手”がいます。それぞれ、アレックス、匿名で全知の誰か、トラビスが“語って”います。彼らの言葉が映像と音によって示される出来事と矛盾しているように見えれば、“信頼できない語り手”や“語り手のアイロニー”について述べても間違いだとは言えないでしょう。『羅生門』(50)には複数の“信頼できない語り手”がいます。これらの作品において、ナレーションによる“語り手”は、はっきりした芸術的意図をもって導入されています。
一方、『マルホランド・ドライブ』(2002)、『インセプション』(2010)、『ジョーカー』(2019)には“語り手”がいません。物語が登場人物に寄り添うように展開され、映像と音がその人物の主観に左右されているように見えたとしても、これらの作品に“信頼できない語り手”がいることにはならないのです。誰も“語って”などいないのですから。
ここで挙げたいくつかの作品は永続的な価値をもっていることが明らかなので、別の記事で詳しく論じる予定です。
字幕の使用、特に冒頭や作品の最後近くで使われるそれについてはどうでしょうか。これは、フィクションに限らず論文やエッセイでも用いられる“エピグラフ”や“付記”のようなものであったり、観客に物語の背景を説明するものであったり、事実に基づく作品で後日談を手短に示したりするものであることが多く、その場合はまったく“語り手”の性格をもっていません。『スター・ウォーズ』(77)冒頭の有名な字幕には、それらに比べれば多少は“語り手”的な要素が含まれているものの、物語世界のお伽話的な性質を観客に暗示し、物語の背景を説明したあとは消えてしまうので、やはり“語り手”ではありません。『バリー・リンドン』における字幕は、そのスタイルから考えてナレーションと同じ匿名の“語り手”に属していると言えるでしょう。
映画の字幕が“語り手”に近い役割を果たしていたのは、サイレント時代だけです。そしてサイレント時代でも1920年代半ばになると無字幕映画の試みがありました。それは、映画が“動く映像”による表現であり、他の諸芸術に依存しない独自の芸術であるという、映画作家たちの認識に基づくものだったのです(映画史をちゃんと勉強した方にとっては釈迦に説法の類でしょうが)。
映画史上、劇映画におけるナレーションの使用が流行した一時期があったことは確かですが、それは1940年代から50年代にかけてで、遠い昔の話です。当時のハリウッド映画では、芸術的であるかどうかとは無関係に、やたらと“語り手”を導入していた感があります。その後、商業的な理由からもテレビとの差異化が進んだ劇映画では、説明的であったり饒舌であったりするナレーションは世界中で消えてゆきました。
邦画、特にベストセラー小説の映画化作品などではたまに、そのような背景を踏まえていないナレーションの使用が見られます。今時そんな映画が製作されていることも、それを見て何とも思わない観客が多いらしいことも、恥ずかしい話だと思います。
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