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“作家の映画”を読解する:『マーラー』(74)

 グスタフ・マーラーは、クラシックの作曲家の中でも、壮大かつ長大な交響曲で知られている人です。今の時代、短時間で鑑賞できる愛らしい歌曲や練習曲、室内楽曲の代表作がないマーラーは、“クラシック離れ”の影響を最も受けそうな一人だと思われます。しかし、ケン・ラッセル監督による本作では、そんなマーラーが現代人にも親しみがもてる人物に見えるだけでなく、空想的でポップな表現にもかかわらず、卑俗化されてもいません。
 創作家の伝記映画は、伝記的な事実に忠実かどうかよりも、主人公の人生と創作活動との唯一無二の関係性が映画的に表現されているかどうかで成否が決まります。タルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』のように、主人公に関する伝記的事実がほとんど知られていなければ、作者は自由に想像力を羽ばたかせることができます。しかし、本作のように制作当時まだ没後60数年しか経っていない創作家が主人公の場合、伝記的事実だけでなく個々の作品に影響を与えた思想や人物、歴史的背景に関する資料も見つかるはずです。あらゆる資料を総合すれば、映画自体に“資料的価値”さえ持たせることができたかもしれません。マーラーの主な活動舞台は文化的に爛熟した世紀末ウィーンだったので、リアリズム的なスタイルで描いても映像的に豪華な作品になったでしょう。
 しかし、この作曲家の生涯と創作についてよく知っていたケン・ラッセルは、リアリズムを選んでいません。彼は、簡潔で連想的なプロット構成や、時には時代考証を無視したミュージックビデオ的な映像を通じて、主人公の人生と彼の創作との関係性を示唆しています。映画を観る限り、この賭けで彼は勝っています。伝記的事実に忠実かどうかはともかく、映画的イメージとして示された『マーラー』の主人公は信憑性をもっており、作曲家の生涯と創作との有機的な繋がりを示しているからです。ポップな表現がしばしば悪ふざけの域に達している印象を与えるにもかかわらず、作者の提示するマーラー像は、パーシー&フェリクス・アドロン監督による伝記映画『マーラー 君に捧げるアダージョ』(2011)におけるそれよりも、ずっと真に迫っているように見えるのです。

プロット構成とドラマ

 既に述べたように、『マーラー』のプロット構成は簡潔であると同時に連想的です。要約するなら、アメリカで指揮者としての活動を終えたマーラーが、20歳近く年下の妻アルマとともにウィーン行の列車で帰還しながら、人生の様々な時期の体験を反映したヴィジョンを見、アルマとの関係を中心とした人生の総括を行ってゆく、というものです。
 2時間弱の上映時間しかないこの映画で現在として描かれるのは、主に列車の車両内と窓外に見える途中駅のプラットホーム上での出来事だけです。既にマーラーは死因となった心臓病を患っており、ラストシーンでアルマとともにウィーンに到着した彼を出迎えるロス医師は、彼の病状が絶望的であることを知っています。映画の最初のシーンでマーラーは、自分の遠くない死やアルマとの良好でない関係を象徴するような、シュールな夢を見ます。彼らの不和の原因は、回想シーンや車中での会話や予期せぬ出来事によって、次第に判明してゆきます。しかし、映画の最後で不和は解消され、マーラーは驚くほど楽天的に見えます。それは彼が、自分の創作を通じて自分自身やアルマとの愛が永遠のものとなったことを確信しているからです。愛の確信とそれによる死のヴィジョンからの解放が、本作のドラマ的なクライマックスです。
 列車の車内とプラットホームという限られた空間で、比較的短い上映時間のあいだに主人公たちの心境がそれほど変化するためには、彼らにとって何か非常に重大な事件が起きなければなりません。実際、映画の前半から車中にはマックスという名の青年将校らしき人物が登場し、彼がマーラー夫妻の関係悪化の張本人にされています。アルマが過去に彼から言い寄られて恋愛感情が芽生えかけたらしいことも仄めかされています。マックスは車内でマーラーに対して挑戦的な態度を取り、アルマは彼からサン・ポルテン駅で一緒に降りることを迫られますが、結局は夫のもとに留まります。
 このマックスという人物には、ロシアの詩人プーシキンの妻に横恋慕して彼を決闘で殺してしまったダンテスを想起させるところもありますが、完全に作者の創作です。現実のアルマはマーラーの死後、建築家ヴァルター・グロピウスと再婚しており、マーラーと出会う以前には作曲家ツェムリンスキーや画家クリムトとも交際があったと言われ、常に芸術の世界から恋人や結婚相手を選んでいるからです。あとで述べますが、マックスが芸術家ではなく軍人として描かれていることには、本作の内的論理から見て必然性があります。
 アルマが夫の創作に自分への愛が込められていたことを知ってマックスの申し出を拒否し、和解した夫妻が一緒にウィーンに降り立つという結末は、ドラマとしてのカタルシスを生み出す一因になっています。しかし、そのような現在進行形のドラマだけでは、『マーラー』は陳腐なメロドラマに終わっていたはずです。

 この作品のドラマに深みを与えているのは、現在進行形の出来事のあいだに挿入される夢や回想のエピソードです。マーラーの人生の様々な時期における体験がそれらのエピソードに反映されています。しかし、主人公の体験として示された出来事には、明らかに作者ラッセルによる創作だと思われるものもあります。ドラマ全体はマーラーの伝記や歴史的事実から大きく逸脱しないように作られていますが、主観的であることが許される夢や回想のエピソードでは、しばしば連想によって非現実的な場面を作り上げています。一見突飛なそれらの連想は恣意的なものではなく、以下で述べるように、論理的に選択され、現在進行形のドラマと密接に関係しています。

リアルな回想とシュールな夢

 回想のエピソードは、マーラーやアルマの連想によって導入されています。前者が音に対して敏感なことや、2人が音楽に対して自分の体験に基づく見解をもつことが、回想のきっかけにもその内容にも反映されています。それらのエピソードは彼らの体験の記憶を示しているため、映像や音は基本的に現実的です。

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