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“作家の映画”を読解する:『グッバイ・ゴダール!』(2017)

 ミシェル・アザナヴィシウスが注目に値する映画作家であることを、私は本作によってようやく確認することができました。アカデミー作品賞ほか多数の映画賞を受賞した『アーティスト』(2011)は観ていましたが、映像がサイレント時代のそれのようで俳優たちの台詞が聞こえないスタイルは1980年代から前例があるため(林海象監督『夢みるように眠りたい』、アキ・カウリスマキ監督の『白い花びら』)、特に個性的だとは思えなかったのです。サイレント時代ハリウッドの大スター、ルドルフ・バレンチノをモデルとするメロドラマをフランスの監督が撮るのはあまりにも商業主義的すぎるのではないかという程度にしか、捉えていませんでした。
 『グッバイ・ゴダール!』を観た私は自分の認識が間違っていたらしいと気づき、遅ればせながら監督の前作『あの日の声を探して』(2014)を鑑賞し、腑に落ちました。アザナヴィシウス監督は、映画が娯楽産業であると同時に芸術でもあり続けているという歴史的な事実を冷静に受け止め、このメディアで作家としての個性を打ち出すために合理的な戦略をとってきたのです。
 彼の映画には、無理に“個性的”であろうとすることによる不自然な緊張はありません。彼は題材に合わせて変幻自在にスタイルを変えながら、それぞれのスタイルを通じて映画に反映された時代精神を再現してみせることができる映画作家です。そこにはノスタルジックな懐古でも映画史的な蘊蓄の披露でもなく、現代的な観点からの批判や考察が感じられます。
 1967年生まれのアザナヴィシウスには、彼と同世代のポン・ジュノやドゥニ・ヴィルヌーヴとも共通する、映画というメディアに対する適度な距離感があるようです。フランス人らしい“映画愛”は作品の随所に感じられるのですが、ゴダールや彼の信奉者たちのように過度にではなく、映画に関する自分の愛と知識は、個々の作品のテーマや題材に応じて、娯楽性と芸術性のバランスを考えながら反映されています。彼と同じ世代の映画研究者として、私には、その合理主義が生き延びるための賢明な戦略であることが理解できます。

“偉大な映画作家”と情けない中年男

 本作の邦題は『グッバイ・ゴダール!』ですが、フランス語の原題は"Le Redoutable"であり、「恐るべき者」とでもいう意味でしょうか。また、本国以外では「ゴダール、わが愛」という意味合いの公開タイトルになっている場合もあります(IMDbを参照)。その題名からも映画作家ジャン=リュック・ゴダールが主人公なのは確かですが、作中の彼は政治思想に傾倒しすぎて創作にも結婚生活にも失敗した、情けない中年男にしか見えません。映像のスタイルはどことなく“60年代ゴダール風”ですが、ジャンルとしてはドラマというよりもコメディに近いです。
 本作の物語内容を要約すれば、次のようになるでしょう。

 中年にさしかかった世界的に有名な映画監督(ゴダール)が、政治に傾倒しすぎて映画制作か政治参加かという二者択一を迫られます。当然ながら彼は前者を捨てることができず、スランプと自己嫌悪に陥ります。やがて彼の才能を信じる、まだ20歳そこそこの新妻(アンヌ)とのあいだで衝突が絶えなくなり、最後は創作でも愛でも破綻したことを自覚します。

 実際、映画の物語内容はこれ以上でも以下でもありません。ゴダールの伝記映画として見ると物足りないでしょうが、ドラマとしては完結しています。
 本作の原作はアンヌ・ヴィアゼムスキーが2010年代になって発表した自伝的小説であり、映画の物語内容は基本的に事実に即していると思われます。 ゴダールの二番目の妻であった彼女は、19歳で『中国女』(67)に出演して彼と結婚し、79年に彼と正式に離婚しました(作中では触れられていませんが、彼らが出会ったきっかけは、ゴダールがアンヌの出演したロベール・ブレッソン監督『バルタザールどこへ行く』(66)を観て一目惚れしたことのようです)。
 冒頭のシーンに描かれているのがその『中国女』の撮影風景ですが、そのシーンはゴダールの映画を一本も観ていない観客でも二人の関係が分かるようにできています。
 このシーンは、ナレーションによる“語り手”が二人いるという、かなり珍しい組み立てになっています。“語り手”の一人はアンヌ、もう一人はゴダールで、このカップルがそれぞれ相手のことを観客に紹介するのです。「誰もが彼の才能を認めた」ジャン=リュック・ゴダール、「映画の概念を変えた男だ」とアンヌは語りますが、ゴダールは「彼女は僕を捨てる」「美と若さのあるこのブルジョワ娘はもうすぐ20歳」と語っています。
 なぜゴダールは「彼女は僕を捨てる」と予感しているのでしょうか。それは次のナレーションで暗示されています。「彼女は当時の僕に魅力を感じていたが、僕は以前の“ゴダール”ではない。モーツァルトは35歳で死んだ。35歳を超えた芸術家はマヌケだ。僕は数ヵ月で37歳になる」。
 この時点ですでに、17歳も年の差がある二人の、必然的なすれ違いの要因が暗示されています。「映画の概念を変えた男」はもはや自分の創作に以前ほど自信を持てず、政治に深入りして恋人を「ブルジョワ娘」扱いしていますが、アンヌのほうは素朴に彼の偉大な才能を信じつづけています。偉大な中年男が自分の言動に確信をもてずに落ち込んだりイライラしたりすればするほど、若い女は失望してゆきます。彼女としては、もっと自信満々で仕事に取り組んでいる他の監督と比較したくもなるでしょう。そのことがまた、偉大な中年男の嫉妬をかきたてることになります。

 アザナヴィシウス監督は、“偉大な映画作家ゴダール”の創作における苦悩や疎外感を描こうとしているのではありません。観客の誰もが納得するであろう、年齢差の大きな芸術家夫婦間に起こるありふれた感情のすれ違いを描いているだけです。そして、監督はなぜそのようなすれ違いが生じたのかを、(ゴダール映画にありがちな)哲学的言説や文学作品からの引用を通じてではなく、物語を真っ当なドラマとして構成することによって、普通の観客が理解できるようにしています。
 先に紹介した冒頭シーンの組み立てはドラマ的に見てまったく無駄がなく、最初に示される「1 ウォルフガング・アマデウス・ゴダール」という字幕やずっとBGMとして流れているモーツァルトの音楽の使用法も、映画の主人公ゴダールの映画作法に近いものです(実際に彼は、ヒロインが悲惨に死んで終わるような映画でさえ悲劇性を強調したことはなく、特に80年代以降は“軽快さ”が売り物だったのですから、自分が映画の主人公として同様に扱われても文句を言えた立場ではないでしょう)。

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