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“作家の映画”を読解する:映画の本質論と“作家の映画”

 映画は本質的に「多層的」です。現在ではこのことに関しては、あまり説明を要しないと思います。映像制作は一昔前より格段に身近なものになりました。多少なりとも映像に関心があって“クリエイティヴ”であろうとする若者なら、映像の撮影や編集を試みたことのない人のほうが少ないのではないでしょうか。映像編集ソフトには映像トラックとは別に音声トラックがあるのが普通であり、少しでもそれをいじってみれば、音声が映像の解釈を方向づけたり映像の意味を強化したりすることは、容易に分かると思います。
 映画がフィルムで撮影されていた時代でも、音声は物理的に映像とは別のトラックで編集されていました。映像と音声が一つになるのはアフレコや音楽の録音、ミキシングが行われたあと、制作が最終段階に入ってからです。フィルム時代の劇映画では、同時録音した音声をそのまま使うことは少なく、アフレコが一般的でした。効果音や現実音は、音楽と同じくらい個々の映像やシーンの知覚に大きな影響を与えます。しかし不思議なことに、映画批評家の多くは映像と音楽にしか分析的な関心を向けず、まるで音楽以外の音が聞こえていないかのようです。

 映画が多層的であるのは、映像と音という二つの並行する列があるからだけではありません。映像も音も、上映時間内で変化しながら、それぞれが複数の意味の系列を観客に伝えることができます。この事実は、実写映像と同期する音声の組み合わせによって自然に生じる「多義性」よりも、はるかに重要です。映画が多層性であるからこそ、映画作家は自分の作品に意味の豊かさを与え、その豊かな意味を、ある程度以上(無意識にそうする部分が多いとしても)秩序づけることができるのです。音声、つまり現実音や音楽、話される言葉という要素は、映像によって示される出来事の解釈を左右し、その意味にあれこれのニュアンスを与えます。私はここで“異化作用”という極端な意味の変容のことだけを言っているのではありません、通常のドラマツルギーのレヴェルでも、それ以外のレヴェルでも、音は普通に映像の解釈に影響を与えるのです。

 もう60年以上前の話ですが、フィルムに定着された映画映像の特質を考察し、そこから演繹して現実のもつ多義性を再現することを理想としたリアリズム映画論がありました。それによれば、映画監督の課題とは、現実をありのままに定着する映画映像の本質に従って、カメラの前の出来事が現実と同様に多義的であるように”演出する”ことである、というのです。このような映画論を唱えたのが、“ヌーヴェルバーグの父”と呼ばれることもある批評家アンドレ・バザン(1918~58)です。彼はモンタージュ映画論を否定し、ショット同士の連結を“デクパージュ”と呼び、長回しを好む映画作家を擁護しました。
 ”演出”とはその本質からして出来事の解釈を示す仕事なので、劇映画において「現実の多義性」をありのままに再現することは、矛盾であり不可能事です。そんな映画作品は、例えばニコラウス・ゲイハルター監督のナレーションも字幕も伴奏音楽もないドキュメンタリーくらいしか存在しません。それはともかく、バザンのリアリズム映画論を突き詰めてゆくと、ダルデンヌ兄弟の真実味に満ちた社会派ドラマや、近年デジタル映画技術の進歩によって増加しているような、これ見よがしに長回しを多用する劇映画が「まあまあ“映画的”」だということになりそうです。
 しかし、現実の映画史を振り返れば、前世紀の最後の四半世紀から、そして特に21世紀に入ってからはいっそう、バザンのリアリズム映画論とはまったく違う観点から現実の「多義性」を反映した作品が増えているのが分かります。
 例えば、ネメシュ・ラースロー監督の『サウルの息子』(2015)などは、一見バザン的なリアリズム映画論の実例のように見えて、実はそうではありません。この作品の映画美学的な特質を考察するには、監督と同じハンガリー人でサイレント時代から映画理論家・脚本家として活躍していた、ベラ・バラージュ(1884~1949)の映画論のほうが役立ちます。バラージュはサイレント時代の映画論『視覚的人間』(1924)で有名ですが、トーキー普及後も映画理論書を著しており、早くも1940年代末に映画における音について体系的な理論的考察を行っていました(彼の『映画の理論』のドイツ語版刊行は1949年)。
 前記の『サウルの息子』、あるいはタルコフスキーの『サクリファイス』を観たあとで、以下のようなバラージュの言葉を読めば、彼が1940年代末時点でどれほど時代に先駆けていたかが分かるでしょう。

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