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“作家の映画”を読解する:「空間の時間化」と「時間の空間化」

(この記事は6507文字です) 

 本稿では、連載中の「”作家の映画”を読解する」のシリーズ記事を読む際に役立つ、映画美学的な考察およびそれに関連した映画的手法の解説を行います。既に公開済みのいくつかの記事(具体的には、『ストーカー』、『バリー・リンドン』、『乱』、『風が吹くまま』、『さすらいの二人』、『東京物語』、『サウンド・オブ・メタル 聞こえるということ』、『コヤニスカッティ』に関する記事)に対しての、補足的な意味ももつ内容になります。

 映画において、空間や時間は、社会的或いは政治的な状況を表現するための寓意的イメージの構築に利用されることもあります。もちろんそれも立派に“映画的”な表現です。前者の実例としては『パラサイト 半地下の家族』(2019)やそれに影響を与えた『天国と地獄』(63)が挙げられます。後者の例としては、もっとマイナーな作品ですが木下恵介の『陸軍』(44)が挙げられるでしょう。
 しかし本稿で解説するのは、通常は複数のエピソードにわたって構築されるそのようなイメージのことではなく、ショット単位の手法としても観察できる、“作家性”のある空間や時間の扱い方です。

 タイトルにもなっている「空間の時間化」と「時間の空間化」は、映画作家達によってしばしばそれとは意識されずに行われています。観客の方はそれらが実現されている映像(ショット)を、作品の「リズム」の一部として、或いは「テンポ」の変化として知覚しますが、「ああ、ここでは空間が時間の流れとしても表現されているな」とか「時間が空間の広がりとして表現されている」とか意識することはおそらく稀です。なぜなら、この二つは、私達が日常生活において普通に経験し、しばしば陳腐化した言い回しで表現されたりすることも多い感覚の、映画的表現だからです。
 空間の時間化や時間の空間化は、映像が主観(POV)ショットやそれに近い印象を与える「切り返し」でない場合に、かなりはっきりそれと分かります。それとは逆に、それらが主観ショットに含まれている場合には、物語言説の中に溶け込んで認識されにくくなります。要するに、主人公や登場人物が全身かそれに近いサイズで示されていたり、或いは人物が全く見えない風景や室内ショット(空ショット)であったり、作中で見る主体が想定されていない物体のクロースアップであったりする場合、劇映画ではこの二つの現象が生じやすいのです。

 もちろん、空間の時間化と時間の空間化は、物理的現象ではなく心理的(芸術心理学的)現象です。それは「言葉にならないものが映像と音によって表現されている」という映画芸術固有の魅力を観客に実感させる、作家的な手法として意識的に用いることができます。その一方で、作品全体のリズムや観客層を考慮せずにそうした手法を多用すれば、眠気を催す退屈さや物語内容に対する不可解さの印象を観客に与えることになるでしょう(“長回し”の偏執的な濫用は、まさにそのような弊害をもたらします)。

空間の時間化

 これの最も分かりやすい実例は、いわゆる「空(から)ショット」です。
 無人であったり人物の姿が見えても判別できない風景や室内の、静的な構図の映像です。空ショットに関しては、最古の例としてセルゲイ・エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(25)を挙げることができますが、もう少し新しいものとしては小津安二郎の諸作品、例えば『東京物語』(53)などに見られ、ごく最近の例としては、ダリウス・マーダー監督の『サウンド・オブ・メタル 聞こえるということ』が挙げられます。
 ドラマ的にまとまりのあるシーンとシーン或いはエピソードとエピソードの間に、人物のいない風景や室内だけを撮影したショットが挿入され、それが5秒から10秒以上続くと、観客はそれ以上の「時間経過」を感じます。逆に、そのようなショットの後で前のシーンから出来事が続いているようなシーンが続けば、観客は違和感を感じるでしょう。
 ショット内にほとんど動きがなく、人間の存在を感じさせない空間を提示する空ショットは、観客に対して、そこに映っている空間の特徴だけでなく時間の経過も伝達していることになります。そうした効果が生じるためには、観客が「何が映っているのか」を知覚できる以上に長く、ショットを持続させる必要があります。つまり、観客は、ある時間を超えるとその何も出来事が起きない空間を時間としても知覚しはじめるのであり、映画作家はそれを利用しているのです。

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