映画「たまこラブストーリー」を観て(前・映画本編を観るまで)

 ここ一か月ぐらい何をしてたかというと、繁忙期の残業に疲れ、dアニメストアでアニメを漁る生活をずっと続けていた。

 漁る、といっても疲れた脳と身体でまだ見ぬ素晴らしい作品を探しに行くぞ!という気力が湧くはずもない。ひたすら中高生時代に観た/途中まで観た作品をボーっとした頭で眺める生活を続けていた。

 ひたすら観続けていたのは'00年代末から'10年代初頭のアニメ。「ハルヒ」や「けいおん!」、「とらドラ」などが放映され、ぼくのような当時中高生だったナード野郎が次々と人生を狂わせた素晴らしい時代。同世代のオタク野郎に「あの頃」と言えば大体通じる時代。画面の中の主人公たちがスマホではなく、ひたすらガラケーの物理ボタンをポチポチしているだけで涙が抑えられなくなりそうだね。

 で、そうこうしてるうちに一本のアニメにたどり着いた。「たまこまーけっと」という、2013年春シーズンに放映された京都アニメーション制作の日常系アニメである。あらすじは以下のとおりである。(Amazonより引用)

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00G4S78AW/ref=atv_wl_hom_c_unkc_1_9

「けいおん!」シリーズの京都アニメーション制作。うさぎ山商店街にある餅屋の娘・北白川たまこと不思議な鳥が繰り広げる、お騒がせな一年が始まります!(C) TBS


 話数としては12話あるんだけれど、特に視聴者を驚愕させるような演出も展開もなく、ただひたすら上にあげたようなあらすじ通りに話が進む。

 放映当時のぼくは中学3年生だったのだけれど、「なんか何がしたいかようわからんアニメやな」と思って3話ぐらいで切った記憶がかすかに残っていた。それを大学を出て働き始めてから1年が経とうとしている今のタイミングで今更観返してみようということになった。

 観始めてみると、残業続きの毎日にあっては朝ドラのように沁みるアニメで、12話をスッと観終わってしまった。でも「結局何がしたいアニメなんや?」という疑念はやっぱり拭えなかった。同じことを考えた人はぼく以外にも少なくなかったらしく、放映当時の口コミを検索すると「何がしたいのかようわからん」とか「京アニはボケてるんじゃないか」とか、あまつさえ「何がしたいのかわからん過ぎて不気味」とか言われてる始末である。

 視聴者がこのアニメにどこか焦点がボヤけた印象を抱く理由として、個人的には以下の3つのことがあげられると思う。

①ストーリーに挿入される要素の唐突さ、不自然さ

 物語の舞台となる「うさぎ山商店街」のモデルとなっているのは京都市上京区にある出町枡形商店街である。(放映後には京アニと出町枡形商店街とのコラボ企画も行われている)それだけではなく、本作品のなかには出町柳駅・鴨川デルタ・京大周辺エリアといった、観光地から少し外れた「京都の平熱」を強く想起させる場面が何回も繰り返される。

 その一方、物語は高校生の主人公・たまこが日常を過ごす「うさぎ山商店街」に、人間の言葉を話す鳥・デラが現れるところから始まる。デラは自分が南国の島の王家の者であり、王子のお妃を探しにやってきたのだと言う。

 デラが持つ「常夏の南国」「王家」と言った要素は、明らかに物語の舞台として意識されている場所が持つ「過酷ですらある四季の気候の変化」「盆地地形がもたらす独特の閉塞感」「庶民性」といった要素と尽く対立している。

 そもそも人間の言葉を話す鳥という存在自体、実際にこの街に現れていたら「怪異」などと忌み嫌われていたに違いないだろう。

②ブレなさ過ぎる主人公

 上記のような明らかに異質な存在であるデラが現れたにも関わらず、12話を通じて終始主人公・たまこの頭の中にあるのは、商店街のこと、実家の家業であるお餅のことがほとんどである。唐突に表れたデラを当たり前のように日常に受け入れ、それどころか自分が大好きなお餅を食べさせ続けてブクブク太らせる始末。

 12話を通じて終始商店街とお餅のことで頭がいっぱいなたまこは、生まれた時からの幼馴染・もち蔵からの好意(本編第2話・第5話など)にも、毎日同じ部屋で寝起きしている妹・あんこが同級生に抱く恋心(本編第4話・第9話)にも全く気付かない。そして小学校からの幼馴染で、同じバトン部の同級生・みどりが、たまこともち蔵の関係性について複雑な感情を抱いていること(本編第5話など)には気づくはずもない。

 本編第7話にはデラと同じく南国の王家の一族で、王子の付き人兼占い師を務める少女・チョイが登場するものの、たまこはチョイも自分の日常へと当たり前に受け入れる。

 そして最終話には南国の王子であるメチャが、たまこをお妃として迎えにやってくるという急展開を見せるものの、そこですらたまこの頭の中は商店街のポイントカードがいっぱいになること、そして大好きなお餅のことでいっぱいである。そして物語はたまこが王子に「ずっとここにいたいからお妃の話はお断りする」と告げることで終わりを迎える。

 いわゆる「日常系」と言われるアニメでは、「日常」を通じてなにかしら主人公の成長や、人間関係の変化、そしてそれらを通じた主人公の内面的な「日常」に対する認識の変化が描かれることが常である。「日常系」は「日常”系”」であってただの「日常」では決してない。

 ところが本作ではたまこの「日常」に対して明らかに異質な要素が次々に挿入されるにも関わらず、12話を通じてたまこの「日常」に対する認識には変化がない。バトン部やその他学校での活動、そしてデラや商店街の人々の後押しによって、同級生であるみどりやかんな、史織との絆はそれなりに深まっていく。しかしながら、自身の「日常」の基盤となる「商店街」や「お餅」、そして幼馴染のもち蔵との関係についても、いつまでも変わらず続くものとして認識したまま物語は幕を閉じる。

③物語に影を落とす「死」の存在

 主人公一家・北白川家の家族構成は祖父・福、父・豆大、たまこ、妹・あんこの4人であり、たまことあんこの母親・ひなこはたまこが小学校5年生の時に夭逝している(本編第1話)。12話全編を通じ、たまこはひなこの死を受容し、明るくふるまっているように描かれる。(対してあんこはまだ幼いときにひなこを亡くしたため、母親の記憶は薄いようである)

 ひなこの死が明確に物語に影を落としていると考えられるのは本編第6話の冒頭カットと最終話である。本編第6話のあらすじは(おそらく夏の京都盆地の酷暑によって)人出が少なくなった商店街をどうにかするため、たまこたちがお化け屋敷を企画して盛り上げよう、というものである。

 あらすじとしてはありがちな話だが、問題は冒頭シーン、特にOP直前のカットである。冒頭シーンはたまこの鼻歌から始まる。たまこが歌う曲はひなこが生前たまこよく歌って聴かせていたという曲である。そしてOP直前のカットは画面全体が暗くセピア色がかっており、セミの死骸まで転がっている。商店街の人々が「夏枯れ」と呼ぶには不吉すぎる演出である。

 そして最終話、南国の王子・メチャの登場により商店街は騒然となり、昼間にも関わらず軒並み店は臨時休業、うさぎ山商店街はシャッター街と化す。その光景はひなこが亡くなった際、商店街が喪に服して臨時休業となった時と同じものだとたまこは口にする。そこで母・ひなこの死は未だたまこの日常に色濃く影を落としうるものであること、そしてたまこにとって商店街と実家の餅屋、お餅がひなこの死を埋める存在=母性であるかのような描写がなされる。

 ここまで観れば母・ひなこの死がたまこの頑強なまでの現状維持志向、商店街とお餅一辺倒の思考様式を形成していることは明確にみてとれる。そして12話全編(加えて「ラブストーリー」前半)を通じて最も変化が見られないのが死者・ひなこに対するたまこの受容のあり方である。そしてこの問題に一切解をあたえないままアニメ本編は幕を閉じるため、視聴者はどこか焦点がボヤけた感触を感じ、人によっては不吉な印象すら覚えるのかもしれない。

 もっとも、主人公の母の死、という重大な出来事の受容のあり方について、学校生活や日々の商店街での日常、そして南国の王族や人間の言葉を話す鳥が登場「したぐらいで」変化させるというのは、ストーリーとして無理筋ともいえる。

 ようやく映画の話をすると、「たまこラブストーリー」は、以上にあげたようなわだかまりに対する京アニ、そして山田尚子監督の回答と言える。そこでは「まーけっと」本編では終始たまこに想いを告げられないヘタレとして描かれていた幼馴染・もち蔵の行動が、ひなこの死に対するたまこの受容のあり方、そしてたまこの「日常」に対する認識のあり方を少しずつ変えていくこととなる。

(後半・映画本編の感想につづく)

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