批評、家なき子の作詞行為

(批評再生塾、東浩紀講師回の提出文です)
批評家は嫌われ者だ。ある種の軽蔑に常に囲まれる。たとえば、他人が作った作品を論じることで何故偉そうにしているのかだとか、こじつけで社会を語ったとしてそれが何に役に立つのかだとか、そうした言葉がつきまとってくる。「批評家には小説はわからない」と言った小説家もいた(保坂和志のことだ)。お笑い芸人として著名な江頭2:50は映画批評の本を出版しているが、そのまえがきには「例え、どんなつまらない映画があったとしても、批評するオレよりも映画のほうが上だ!もし、その映画がウンコでも、おれはそれをエサにしてしか生きていけないハエなんだ」と書かれている。自分で作品を作っていない人間が、自分で社会を動かそうとしない人間が、偉そうに作品や社会について語る事の傲慢さによって、批評家に対する嫌悪感が根付いてることは確かだ。だが、批評家が軽蔑、あるいは憎まれる理由の根本はそこにはない。もし批評家が自分でものを作れば、偉そうにしていいのか。そうではない。批評が嫌われる理由、そして同時に批評が愛される理由は、批評という言葉の持つ力そのものに起因する。


1.

批評とは、言葉によって、作品・対象に決定的な変容を齎すものだ。その意味で、批評は作詞ととてもよく似ている。作詞とは、一つの楽曲の在り方を、言葉で規定する行為だ。ある楽曲に詞がつけば、もう曲と詞は分けて考えることはできない。一つのかたまりとして、不可分の一つの作品としてそれは享受される。もちろん、ポップミュージックの録音物の製作過程において、作曲、編曲、演奏、ミックス、マスタリングなど其々の役割も重要である(コンピューターによる作曲が可能になった現代では、これらの過程こそ不可分のものになっている)。さらに、その楽曲が録音されたレコード、CDのカバージャケット、あるいはミュージックヴィデオも大きな役割を果たす。しかし、その楽曲に乗る言葉の影響はそれらにもまして絶大だ。音のバランスが変わったり、あるいは一部の演奏を変えたりしても、聴く者に気付かれない可能性は大いにあり得る。だが、歌に乗る言葉を変えれば、気付かれない可能性は大きく下がる。詞は、言葉は、リスナーが敏感に反応する要素であり、楽曲の受容に対して強烈な影響力を持つ。


作詞は、やろうとすればできてしまうものだと思うかもしれないが、ここでは阿久悠が『作詞入門』に記した作詞家の定義を応用する。つまり、「”作詞家”とは、自己満足型や自己陶酔型のアマチュアではなく、年間何十曲というヒットソングを作り出せるプロの作詞家のことである」。多くの人に聞かれるものを前提とするのがここでいう作詞であり、課された仕事をクリアするには多くの作業が必要になる。曲がすでに出来ている場合(おそらく、曲先であることは時代を追うごとに増えてきている)は、その曲と調和するような言葉を探さなくてはいけないが、ただ曲が想起するイメージを的確になぞるものであってもいけない。”I’ll Never Fall In Love Again”という1969年にアメリカで発表されたヒットソングがある(作詞ハル・デイヴィッド、作曲バート・バカラック)。柔らかな音色の楽器隊に乗せて、可愛らしいメロディーを優しい声で女性が歌うポップソングだが、「二度と恋に落ちたりしない」というタイトルからも察せるとおり、失恋の歌詞を乗せている。しかも「彼氏とキスして何が得られるの?肺炎になるほどのばい菌の山!」という毒っ気も込められていて、穏やかな曲調からはかけ離れたものである。にもかかわらず、「この曲にはこの言葉しかない!」という無類の強度を持つ歌詞になっている。曲の雰囲気とはおよそ反する言葉を乗せることで聴き手に強いインパクトを与える好例だが、つまるところ、詞は曲に新たな方向性を与える力を持たなければいけない。対象を的確に理解した上で、対象が持つものとは違うベクトルを言葉で加えて新たな姿を現出させること。批評が行っていることも同じである。


また、時代性を考慮に入れて書かなければ、的外れのものが作られてしまうことも両者に共通している点だ。別に時代意識を表立って言葉にする必要はないし、時代性を表出させるより影に含ませた方がよい結果を生むかもしれないが、テキストが、歌が享受される時代の性質が重要な要素であることに変わりはない。『作詞入門』において、阿久悠は尾崎紀世彦が歌って1971年にヒットした『また逢う日まで』について書いている。時代が優しさとか触れ合いを求めるものになったと感じた阿久は、従来の二度と会うことのない別れの歌ではなく、再会することを前提にした別れの歌を書いたところ、結果的に大きなヒット作となった。言葉が力を持つためには、時代との緊張関係を無視することはできないことを示す一つのサンプルだ。


2.

楽曲における詞と同じように、批評は作品・対象の受容に大きな作用を生む、批評をインプットした後では、それ以前の感覚で対象に接することはもうできない。作詞が嫌悪されることなく、批評が軽蔑の念を覚えさせるのは何故か。批評が外側に立つからだ。すでに一個の対象としての認識が成り立っているものに、批評は外から現れ、対象の姿を荒々しく変容させる。批評は、言語の暴力である。読まれた後には対象となる作品、もしくはその作者に抗力はない。作り手と受けての間に割り込む、強制的な介入者。純粋な鑑賞を妨げる邪魔者。処女と童貞を同時に陵辱するレイプ犯。批評とは、何かを作るものとそれを受け取るもの、二者の関係性を信頼するものにとって、許されざる犯罪行為にほかならない。


多くの人はこのように問いてきた。批評は何故必要なのか。そんなものがなくても、芸術は、文化は、社会は独り立ちしている。余計者なら、邪魔者なら、犯罪者なら、いなくても構わないではないか。この問いの立て方は、はっきりとナンセンスである。作品が享受される時に、批評は否応がなく産まれる。作り手と受け手の間に憎まれっ子が産まれることは、否定しようのない単なる事実だ。歌を有する楽曲があればそこに歌詞が産まれるのと同じように自然なことだ。何故批評が存在しているのかと聞かれたら、すべての子どもたちと同じようにただ、このように答えればいい。「産んでと頼んだ覚えはない」。批評が必要かどうか問うことは、世界に生命が必要かどうか考えるのと同義で、全く持って意味を為さない。要諦される問いは批評はどのように存在しているか、である。


これまで述べてきたことでわかることがひとつ。批評が子供であるのなら、作品も、それを鑑賞するものも、貞操を誇れる者ではない。自らの存在自体が彼らのまぐわいの証明である。だから批評は、偽りの、思い込みの純情面を引っぱたく役割を果たす。そして、明るみになった不純さを、批評は咎めることなどしない。不純さこそを豊かさの証として称揚する。


今、「作品(および鑑賞者)・批評」の関係性を「親・子」との相似形で語っているが、それだけでは語れない特性も批評には存在する。生物学上、ヒトの親は基本的に二つの個体だが、批評において親は無数に存在しており、一組の親(一つの作品と鑑賞者のセット)でで成り立たない。批評は、親たちに出会いながら、数えきれない生まれ直しを繰り返すことの内にしか生まれ得ない。そういう意味で、批評は複数の親を持つ「不純な子ども」だと言える。


3.

ノエル・キャロル『批評について』は、批評を論理的に厳密に定義付けようとした刺激に富む一冊である。キャロルの批評の定義は極めてシンプルだ。曰く、「批評とは、理由に基づいた価値付けである」。記述・分類・解釈・分析などが批評には含まれうるが、それらは全て価値付けのための理由の部分となるものであり、価値付けは批評が必ず有する根本的な行為である。この定義が間違っているわけではない。論理が破綻しているわけでもない。シンプルすぎる回答だといいたいわけでもない。ただただ、言葉の透明さを信じているという一点によって、キャロルの論は決定的に間違っている。説得的な理由を書こうが、論理的な議論を展開しようが、徹底的な記述をなそうが、言葉が対象を価値付けすれば、対象は変容を被る。そのような力を持つ言葉を、「価値付け」なぞというさもしい行為さえ済めば最低限のラインは超えていると考えるのは、言葉の暴力性を考慮していない証拠であると言わざるをえない。価値判断のみにだけ言葉を用いるということは、対象の持つ価値以上の可能性を閉ざすことであり、そこに批評の基準線を引くことには何の生産性もない。このような定義は、親に反抗しない、システムで扱う事の容易い子供を量産することだけにしか役立たないのだ。従順さの教育そのものである。


『批評について』が誤っているのは、前提条件を無批判に受け入れる姿勢をところどころに示す点からわかる。モーツァルトやミケランジェロやシェイクスピアの作品が傑作であるのは誰の目にも明らかだ、という前提を受け入れることで論が進行している。キャロルは、P・G・ウッドハウスのシリーズ物のユーモア小説とミケランジェロの《システィーナ大聖堂の天井画》を比較して、どちらも傑作とはいえ、ミケランジェロに軍配が上がるのは避けられないと語る。何故なら、ミケランジェロの作品は私たちの「社会的な暮らし」にとってより重要だからだ。


ここでのポイントは、コメディそのものが歴史的大作よりも低次のジャンルだということではない。むしろ、ウッドハウスが優れているとされる類のコメディ(中略)は、《システィーナ礼拝堂》のうちに示されている博学的野望ほどの文化的重みはない、ということだ。わたしは、ウッドハウス本人ですらこのことに同意するのではないか、と思っている。


その後にキャロルは「カテゴリーをまたいでのランク付けは、批評にとって必ずやらねばならない仕事ではない、というのがわたしの考えである」と述べている。ランク付けの不必要性はその前から繰り返される主張だが、ここでのポイントは、ランク付けが価値付けより低次の仕事だということではない。ランク付けはいらないという主張に、ウッドハウスとミケランジェロとの比較を止めさせるほどのテクスト的重みはない、ということだ。それ自体が一体どのようなものか一向に定義されていない「社会的な暮らし」や「文化的重み」の名において、無意味な比較がなされる。「社会的な暮らし」と「文化的重み」の価値付けの理由は一切語られない。価値付けを価値付ける前提は、不問に付されるどころか、より強固に固定されているのだ。批評には作家・作品が傑作とされてきた条件を問うことで、現代の在り方を明示する役目を有している。批評の条件を批評しないで、なぜ批評足りうることができるのか。


4.

作詞とのアナロジーによってわかることは、「理由ある価値付け」の後の作業こそが、批評において最も重要なことであるということだ。不透明な言葉の暴力によって対象が変容するということに批評家は意識を持たなくてはいけない。暴力が対象を矮小化させる方向に向かわないようすること、対象をより遠い距離に届かせること、あるいは対象から全く別の様相を引き出すこと。そうしたことを批評は努めなくてはいけない。

「批評は死んだ」と多くの者が語る。東浩紀は『ゲンロン1』の創刊にあたって「アカデミズムの自閉を逃れ、かといってジャーナリズムになりきることのない」ものとしてかつて二本に存在した「批評」はなくなってしまったと述べ、渡部直己は一つの社会や共同体の動揺を感じとるものとしての「批評」が瀕死の状況にあることに危機感を覚え『日本批評大全』を刊行したと語る。私は昨年、青山真治と町田康という二人の作家から直接「批評は今死んでるでしょ」という言葉を聞いた(10月7日、池袋カルチャーセンターでの青山真治『A・A』上映会のトークイベントにて)。当然ながら「批評再生塾」という名付けにも、今の批評が死んでいるという含みがこめられている。批評が死んでいるとはどういうことか。批評の言葉が変容の力を失っているということだ。それは対象と鑑賞者の関係を変容させるだけではない。関係性を成り立たせる前提条件に崩すということも変容に含まれうる。キャロルが無視どころか、言外に否定している批評の役割だ。


批評が作詞であるという定義には、条件自体と距離を置いて、そこに新たな息を吹き込むという意味も込められている。楽曲との距離を的確に取りながら、時に楽曲の持つ意味と正反対の言葉をぶつけていくことが、必要とされる。もちろん、楽曲との距離だけでなく、楽曲を歌う歌手との距離、それを聞くであろうリスナーとの距離、その背後に立つ社会との距離を全て測りきることで、言葉が生まれる。批評も同様だ。対象となる作品との関係だけでなく、読者との関係、社会との関係、発表する媒体との関係。すべての関係項を加味しながら、より広く深く届けて、全てに揺さぶりをかけなくてはいけない。「批評再生塾」という枠組みにおいて批評文を書く我々も同様である。課されたテーマを無条件に受け入れて筆を進めるのでは批評にはならないし、読者にも、「批評再生塾」自体にも変容をもたらす言葉を生むことが求められている。


今まで述べた批評の定義を、「親殺し」のテーマのありきたりな変奏と感じるものもいるだろうか。仕方ないだろう。批評とは生まれつき親不孝者であり、憎まれっ子なのだから。歌詞とは違って、作品の内側に住まうべきを場所を用意されなかった家なき子なのだから。生まれ直すたびに憎まれる永遠の子どもは、いつまでも悪戯をやめない。死んだ批評は、悪戯をすることを忘れている。行儀良く「理由に基づいた価値付け」を行っていたところで、もたらされるのは無視と無感覚だけだ。生きた批評がもたらすものは驚きであり、憎しみであり、悦びである。不純な子どもたちは、偽装された純粋さを嘲笑い、憎まれながら福音をもたらす。ここは批評のグラウンド。家なき子が集まる、真夜中まで終わらない遊び場。

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