黙示録セミナーセッション1(全7セッション)
このノートは、2015年1月20日(火曜日)から23日(金曜日)に新宿シャローム教会、レーマ聖書学院で開催された韓国からの講師、李ゼハ先生の黙示録セミナーの講義ノートに、私が加筆・補足したものです。
黙示録、特に携挙に関しては様々な教えと立場があります。今回は新宿シャローム教会に李ゼハ先生をお招きしましたが、この教えは李ゼハ先生の考える立場から話されています。ぜひ、それぞれが内容を吟味して受け取ってください。それぞれの所属している教会で黙示録に関する考え方、立場があると思いますので、疑問に思うところは所属教会の牧師先生に相談し、所属教会の牧師先生のご意見に従っていただけたらと思います。
イエス様が祈られた「主の祈り」は再臨に関しての祈りになります。
なぜならば、「御国がこの地に」と祈っておられるからです。
もし、御国とこの地での戦争が起きたなら、あなたはどちらにつきますか?
日本に敵対してイエス様につきますか。それともイエス様に敵対して日本につくきますか。
聖書の戒めを守るなら、時には家族、政府からも迫害されることがあります。
そのような時でさえ、私たちはイエス様の御国のために、命をかけて戦う必要があるのです。
■ イエス様はいつ来られるか
黙示録はイエス様が二回目に来られることを記した書物です。
イエス様は三回でも四回でもなく、二回来られることが聖書に書かれています。
イエス様が最初に来られたのは、マリヤを通してこの地に来られた時です。
次に来られる時は再臨の主として来られます。
では、イエス様はいつ来られるのでしょうか。
多くの人はイエス様がお生まれになって2000年で主が来られると思っていました。
それは6000年でこの世が終わると考えられていたからです。
しかし、実際の所、イエス様がいつ来られるかは誰も知らないのです。
それは、イエス様ご自身がいつ戻ってくるか知らないと言われたからです。
その時は、天の父のみがご存知なのです。
この事だけは、誰にも教えられていないことなのです。
考えてみてください。その日を知っていることが、果たして本当に良いことなのでしょうか。
もしその日を正確に知っていたら、主が来られる1年前まで教会に行かなくなってしまうのではないでしょうか(笑)
ところで、主はなぜ夜に来られるのでしょうか。
その理由は、イスラエルでは夜結婚式が行われるという事に深く関係しています。
ここでは、夜と言っても真夜中ではなく、日が暮れた直後あたりの事を指します。
なぜこの時期なのでしょうか。それは、イスラエルでは日中は太陽の日差しが強すぎて、花嫁の化粧が落ちてしまうからです(笑)。
ところがイスラエルでの夕方は、気温が一気に下がり、涼しい風が吹いてきます。
その時刻は、結婚に最適な時刻となるのです。
黙示録を読み進めていくにあたって、知っておいていただきたいことは、一文字でも逃してはいけないということです。
それは、砂の中から金を探すようなものです。
なんとなく読み飛ばしてしまうようなみことばの中に、とても重要な真理が隠されている事があるからです。
■ 黙示録が書かれた目的
みことばはどれも重要ですが、黙示録においての重要な聖句はどれでしょうか。
黙示録には全部で404節の聖句があります。
その中で最も重要なのは1章1節です。
創世記で大切なのは1章1節です。
なぜなら書簡の書き始めには著者の思いが込められていることが多いからです。ですから、私たちはこの黙示録1章1節を注意深く見ていかなければなりません。
<黙示録1章1節>
イエス・キリストの黙示。 これは、 すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、 神がキリストにお与えになったものである。 そしてキリストは、 その御使いを遣わして、 これをしもべヨハネにお告げになった。
ここには、黙示録の目的が書かれています。
ヨハネがなぜ、黙示録を書いたか。
ここには確かな目的があるのです。
■ 誰に示すために書かれたか
それでは、まず誰に示すためかということを見て行きましょう。
それは「しもべ」たちに示すためです。
これは、他の新約聖書を見ても見られないことです。
他の書簡は聖徒たちに見せるために書かれています。
それでは、聖徒としもべの違いは何でしょうか。
それが黙示録を開く重要な鍵となります。
この「しもべ」という言葉は、黙示録を理解するのにとても大切な単語です。
なぜ私はこれほど「しもべ」を強調するのでしょうか。
ところで、ルターはしもべと聖徒の間に区別がないと主張しました。これがいわゆる「万人祭司説」です。
この事はカトリックの皆さんに対して言われたものになります。
カトリックの中には明らかに祭司と聖徒の間に差があるのが現実です。
その違いに気づかせるためにルターはこれを強調したのでした。
しかし、この黙示録に書かれいる「しもべ」と聖徒は違います。
聖書では何かを主張するために他のところから根拠を探してくるという事が聖書を紐解く鍵になります。聖書で聖書を読むのです。
それでは、「しもべ」を聖書の他の箇所から探してみましょう。
<黙示録 22章 6節>
御使いはまた私に、 「これらのことばは、 信ずべきものであり、 真実なのです」と言った。 預言者たちのたましいの神である主は、 その御使いを遣わし、 すぐに起こるべき事を、 そのしもべたちに示そうとされたのである。
このみことばも「しもべたち」に示すと言っているのがわかります。
黙示録のはじめと終わりに「しもべ」に対して書かれていると書かれているということは、とても重要なことなのです。
例えば、牧師先生が集会の初めと終わりに同じことを言ったのなら、それは重要なことであるということがわかります。
■ 示すために誰を遣わされたか
<黙示録 22章16節>
「わたし、 イエスは御使いを遣わして、 諸教会について、 これらのことをあなたがたにあかしした。 わたしはダビデの根、 また子孫、 輝く明けの明星である。 」
ここで聖書は、誰を遣わしたと書いているのでしょうか。
それは御使いです。
黙示録の中での御使はἄγγελος(アンゲロス)と書かれています。
そこからエンジェルということばが生まれました。
このアンゲロスには二つの意味があります。
一つ目は「天使たち」という意味。
もう一つは「使者」という意味です。
神様の教会で働きをしているものを使者とも言います。
この箇所は日本語では「御使い」と書かれていますが、韓国語では両方の意味で書かれています。
文中でどの意味を使われたかというのは、文章全体を見て悟らなければなりません。
普通に考えて、教会についてメッセージをするのは天使のすることではありません。
教会の毎週のメッセージは牧師から語られるでしょう。
だから、16節で書かれているのは天使ではなく使者と取るほうが自然です。
■ どこから来るか
<黙示録 7章 2節>
また私は見た。 もうひとりの御使いが、 生ける神の印を持って、 日の出るほうから上って来た。 彼は、 地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、 大声で叫んで言った。
日の出る方からと書かれていますが、これは太陽を意味します。
余談になりますが、聖書には多くのものが出てきます。
なぜ日本の国旗には太陽が描かれているのでしょうか。
魚でも良かったのではないでしょうか。
私は、もしかしたら、聖書を知っている人が日の丸を書いたのではないかと思います。
みことばに戻りますが、日の登る方から、印をもって御使が上ってきたと書かれています。
<黙示録 7章 3節>
「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、 地にも海にも木にも害を与えてはいけない。 」
それでは、だれの額に印を押すのでしょうか。
■ 誰の額に印を押すのか
<黙示録 7章 4節>
それから私が、 印を押された人々の数を聞くと、 イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、 十四万四千人であった。
印を押されたのはイスラエルの人々です。
本当のイスラエルだというのを発見した人が日本にいるというのを聞いたことがあります。
教会史の中で、最もイスラエルが回復することを信じていたのは、実は日本でした。
中田重治らのグループはイスラエルが建国される前から、イスラエルの回復を信じて祈っていました。
これは神に感謝すべきことではないでしょうか。
SHOP(シャローム祈りの家)、また日本各地の祈りの家の働きは、イスラエルの回復とともに進んでいると信じます。
霊的なイスラエルという考えは、イエス様を信じるものすべてがイスラエルであると信じるというものです。
そこで私は自分は霊的なイスラエルだと言っている人に質問したいのです。「あなたはどの部族に属するのですか?」と。
<黙示録 7章 4-5節>
それから私が、 印を押された人々の数を聞くと、 イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、 十四万四千人であった。
ユダの部族で印を押された者が一万二千人、 ルベンの部族で一万二千人、 ガドの部族で一万二千人、
このことから、ここでは実際のイスラエルということができます。
神様は十二部族をよくご存知です。
「神のしもべ」というテーマを考える時、だれに印を押したかを考えることは、とても大切です。
この印はイスラエルの部族のしもべたちに押されるのです。
では、しもべは誰か。
しもべとは神様から召されたもののことです。
神様はエジプトの中にいるイスラエルを救おうとされました。
例えば、東京のみんなを救おうを思ったら、神様は東京タワーの上に現れて、「わたしは神だ!」と言えば、皆一斉に信じるのではないでしょうか。ところが、神様はそういう現れ方をされませんでした。主は、みんなの見ている前で姿をあらわして民を救われたのではないのです。
出エジプトの時、主はモーセにだけ現れられました。
神様は働きの時に、しもべを呼んで働かれるお方です。
神様に召されたのは旧約では王であり、祭司長であり、預言者でした。
新約聖書では使徒、預言者、伝道者、牧者、教師です。
私は教師の召しを受けています。
教師は五役者の中で一番下にいるものです。
主は新約時代にはこの五役者を通して働かれました。
つまり、五役者は神のしもべたちにあたります。
このしもべたちに見せるため、示すために黙示録は記録されたのです。
それはなぜか。
このしもべたちが黙示録のことを悟って、聖徒に教える必要があったからです。
■ 三種類の人
<黙示録 1章 3節>
この預言のことばを朗読する者と、 それを聞いて、 そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。 時が近づいているからである。
ここには三つの種類の人が出てきます。
・朗読するもの
・聞くもの
・書かれているものを守るもの
朗読するものは誰でしょうか。
朗読するものと言う意味は、自分一人、部屋で読むという朗読ではありません。
公的な場所で大きな声で朗読してあげるということです。
2000年前は聖書は貴重なものでした。
当時、聖書は羊皮紙に書かれていました。
一冊の聖書を書くためには、実に約380頭の羊が必要でした。それから考えても、聖書が相当高級なものであったということが分かると思います。
だからその当時には聖徒が聖書を持つことは考えられませんでした。
教会ですら聖書を持てないところがあったほどです。
では、一般の聖徒はどのように聖書を理解したのでしょうか。
それは朗読する者の声を座って聞くということで分かったのです。
では、それをだれが朗読したのでしょうか。
それがしもべです。
なぜ、主はヨハネの黙示録を先にしもべに見せたのでしょうか。
それは、しもべ自身がそれを読んで、理解して、そして聖徒に語る必要があったからでした。
朗読する者は幸いというのは、しもべにあてられたものです。
だから、単に聖書を読むものではないということがわかります。
なぜ、多くの教会で黙示録から多く教えられないのでしょうか。
それは黙示録は難しく、多くの異端、間違った教え、多くの解釈があるから牧師が怖がるという理由からではないかと思います。
本当は牧師も教えたいが、どうしていいか解らないというのが現実なのではないでしょうか。
だからこそ、まず先にしもべたちが黙示録を悟るべきなのです。
つまり、悟って教えることが必要なのです。
なぜ、朗読するものは幸いと言っているのでしょうか。
もしかしたら、イエス様は、ついにしもべたちが聖書を朗読しなくなるとご存知だったのかもしれません。
ここでいうしもべたちは教会の牧師先生を言っています。
だから、終わりの時代の教会の牧師はとても重要な働きを担っています。
イエス様がその事をはっきりを教えられているのです。
■ しもべの心構え
それでは、ここからしもべをもう少し詳しく見ていきます。
イエス様がどれほどしもべに心を注いだかを知ることができるでしょう。
<ルカの福音書 12章 35節>
腰に帯を締め、 あかりをともしていなさい。
腰に帯を締めるとは、服をちゃんと着て、帯をしっかりと締めなさいということです。
なぜ、あかりを灯せと言っているのでしょうか。
<ルカの福音書 12章 36節>
主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、 すぐに戸をあけようと、 その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。
先ほどもお伝えしましたが、婚礼は夜行われます。
結婚式を夕暮れに始めたらいつ終わるのでしょうか。
通常、それは夜中まで続きます。
主人たちはそこに参加して帰ってきます。
だから、婚礼に参加する者たちが家に戻るのは真夜中になります。
普通はみんな眠っている時間です。
しかし、その中で寝てはならない人がいます。
全員が寝ても、決して寝てはならない人。
それはしもべです。
家の人達は婚宴に参加しても、しもべは家で主人の帰りを待っていました。
家の人達が婚宴を終えて、帰ってくるのを待ち受けていたのはしもべです。
ここでの主人はイエス様です。
もちろん、聖徒らも眠ってはいけないのですが、しもべは特別です。
しもべは主人が戻って来るまで眠ってはならないのです。
もし、主人が帰って来た時にしもべが目を覚ましていなかったら、主人は家の中に入れません。
イエス様はしもべたちが眠ってしまうことをご存知だったのでしょう。
主人が戸を叩いても戸を開けない時代が来ることをご存知だったのでしょう。
<ルカの福音書 13章 37節>
帰って来た主人に、 目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。 まことに、 あなたがたに告げます。 主人のほうが帯を締め、 そのしもべたちを食卓に着かせ、 そばにいて給仕をしてくれます。
その時、目を覚ましているしもべは幸いです。
ここで、もう一つの驚くべきことは、主人が来られ、しもべが戸を開けたなら、主人がしもべに仕えると書かれていることです。
主人が帰って来たら給仕をするのは、普通はしもべの仕事なのに、なぜその逆がありえるのでしょうか。
なぜなら、目を覚ましているしもべが、それ程に尊いからです。
目を覚ましているしもべには、イエス様ご自身がもてなして下さるのです。
かつて、日本では天皇陛下は京都に住んでいたというのを聞いたことがあります。
明治維新の時、大政奉還によって江戸幕府のすべての権威は一度天皇に戻されました。
その時、坂本龍馬らは京都の東の山に埋められたと聞いています。
そして、天皇陛下は朝起きると、東の方に向かって礼をしていたということです。
王がしもべに敬意を評していたのです。それほど、しもべの忠誠心は大切であるということを知ることができる一つの出来事です。
苦しみの中を通ってきた中心が、目をさましていたしもべです。
だから、主御自身がもてなしてくださるのです。
偉大な兵士に対しては将軍も礼をするのです。
これからどんなことが起こっていくのでしょうか。
どんなに偉大なものだからと言って、イエス様にもてなしをさせるのでしょうか。
これから、神のしもべたちには偉大な使命が与えられていくでしょう。
巨大な戦争の部隊が今立ち上がっていることを感じます。
しもべの導きに聖徒らは従っていきます。しもべがどう導くかによって、聖徒らの行き先が決まります。つまり、しもべたちはこの終わり時の聖徒を導く者だからこそイエス様が強調されているのです。
主人はしもべを信頼し、鍵を預けます。
鍵は信頼の証です。
主人はしもべを信頼し、そのしもべの忠実さのゆえに主人自らがしもべをもてなし、給仕して下さるのです。
<ルカの福音書 13章 38-40節>
主人が真夜中に帰っても、 夜明けに帰っても、 いつでもそのようであることを見られるなら、 そのしもべたちは幸いです。
このことを知っておきなさい。 もしも家の主人が、 どろぼうの来る時間を知っていたなら、 おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
あなたがたも用心していなさい。 人の子は、 思いがけない時に来るのですから。 」
真夜中に、突然主人は来られます。
夜とは分別ができない時のことを言っています。
つまり、真理と偽物が混ざってしまう状態を指します。
何が真理なのか分からない世界です。
混沌とした真夜中のような時に、主は突如として来られるのです。
その時、真夜中でも主人をお迎えできるのは目を覚ましているしもべです。
<ルカの福音書 13章 42節>
主は言われた。 「では、 主人から、 その家のしもべたちを任されて、 食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、 いったいだれでしょう。
ここで管理人が出てきますが、管理人は家の人々のために食事を配る人々のことです。
知恵があって賢い管理人です。
もし、忠実であっても知恵のない管理人であったらどうなるでしょうか。
すべての者が忠実で知恵のあるしもべとは限らないということを覚えなければなりません。
忠実でいて、しかも賢いしもべは少ないのです。
だからこそ、イエス様がこの事を強調されているのです。
<ルカの福音書 13章 43-44節>
主人が帰って来たときに、 そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
わたしは真実をあなたがたに告げます。 主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
<ルカの福音書 13章5節>
ところが、 もし、 そのしもべが、 『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、 下男や下女を打ちたたき、 食べたり飲んだり、 酒に酔ったりし始めると、
賢くないしもべは、主人はまだ帰ってこないと考えるので、人を打ち叩きます。
一体、誰を打ち叩くのでしょうか。
それは、下男や下女といった家のものを打ち叩くのです。
なぜ、打ち叩くのでしょうか。一体、その頭の中には何があるのでしょうか。
しもべは勘違いをしているのでしょう。この家は誰が所有しているかという事を忘れてしまっているのです。
この家は主人の家です。自分のものではないのです。
ここから間違いが起こっていくのです。
しもべは、家が自分のものだと思っているから、自分の思いのままにしてしまうのです。
考えてみてください。教会は誰のものでしょうか。
そうです。イエス様が所有されているものではありませんか。
この家では、本来、神様の所有である人々を預かって、教えているに過ぎないという事実を知る必要があります。
家を自分のものだと思っていることが大問題なのです。
これは大きな罪となってしまいます。
・食べる
・飲む
・お酒を飲む
といったものは自分ひとりで罪を犯し、体を壊し、破産してしまいます。
ところが、打ち叩くとは被害者を産んでしまうのです。
自分だけでは済まされない罪です。
しかし、この4つの罪よりも怖いものがあります。
それは、主人が来たのに扉を開けないという罪です。
<黙示録 3章20節>
見よ。 わたしは、 戸の外に立ってたたく。 だれでも、 わたしの声を聞いて戸をあけるなら、 わたしは、 彼のところに入って、 彼とともに食事をし、 彼もわたしとともに食事をする。
ここで言う「わたし」とはイエス様です。
イエス様はどこに立っておられるのでしょうか。
イエス様は戸の外に立っておられます。
そして、次に、戸をたたかれます。
続いて、「わたしの声(言葉)を聞いて戸をあけるなら」と言われます。
イエス様は確かに来て下さいました。
そして戸を叩いて下さいました。
それでも戸を開けなかったのです。
これらは明らかにしもべの罪です。
人は死ぬまで学び続ける必要があります。
私は、イエス様が戸をたたいている絵を見たことがあります。
その絵は私たちの心の戸だという説明を聞きました。
だから、「あなたの心のとびらを開いてください。そうすれば、イエス様はあなたの心に来てくださいますよ」と解釈するのが普通かと思います。
しかし、私は違う角度からこれを解釈します。
このみことばは、家に戻ってきたイエス様の事を言っています。
つまり、イエス様の再臨の事を言っておられるのです。
主が来られた時、戸を開けるなら、しもべたちは座る事ができます。
主人としもべが共に同じ食卓を囲み会話をするという、普通ではあり得ないことが起こるのです。
これこそが愛の姿です。
ヨハネの黙示録の本文を解釈するには、イエス様が直接語った言葉を解釈することが大切です。
イエス様が直接語られた言葉の中には、黙示録の謎を解く多くの鍵が入っています。
ではここで皆さんに質問します。ヨハネとイエス様、どちらが偉大なのでしょうか。もちろんイエス様です。
どんなにヨハネが偉大な人だとしても、イエス様の前では比較にならないでしょう。
ですから、黙示録を読み進める中で難しい聖句にあった時には、イエス様が直接語られた言葉を探してみましょう。
だから、福音書のことばをよく理解する必要があります。
ぜひ、イエス様が語られたみことばの中から黙示録の情景を覗いてみてください。
そして、みなさんの祈りが教会の牧師を変えるということも同時に覚えておいてください。
私は黙示録を教える時、必ずこのしもべの事を教えます。
私は「しもべ」が難しい黙示録を紐解く鍵だと思うからです。
■ リバイバルを阻む敵を知る
なぜ311は東京にやって来なかったのでしょうか。
311で失われたあらゆるものは本当に心を引き裂くほどつらいものです。
しかし、もし、東京を直撃していたら日本はなくなっていたことでしょう。
だから、日本に災いが来ても、日本の中心である東京は守られる必要があるのです。
この新宿シャローム教会は、日本の運命を握り、左右する教会だと思います。
みなさんこそ、日本を守っている人なのです。
神様が東京を滅ぼそうという心が生じたとしても、その祈りの家の聖徒らを見て、その考えを改められるのです。
主が私に下さる心は、この新宿シャローム教会だけでは、そのことができないということです。
もっとたくさんの祈りの火が東京に起こる必要があることを感じます。
私は、このところから東京の各地に、そして日本全国に祈りの火を分け与えるという使命がこの教会にあると思います。
今、世界中で日本のリバイバルが起きると言っている人が多くいます。
韓国のリバイバルはチョー先生のペンテコステリバイバルによって起こりました。
その当時、韓国はとても貧しかったのです。
チョー先生のメッセージと韓国の貧しさがマッチしたので韓国にリバイバルが起こったのだと思います。
韓国の問題は「貧しさ」でした。
それでは、日本の問題は何でしょうか。
日本の問題は神々です。
日本には八百万(やおよろず)の神々がいます。
出エジプトの時に起こった十の災いは、エジプトの十の神々に勝利するためでした。
もしエジプトの神々が十であったなら、八百万の神々がいる日本はどのようにこの戦いをしていかなければならないのでしょうか。
この神々に対向するためには、神の御名を崇める必要があります。
皆さんは、この神々と戦う必要があるのです。
貧しさと戦うのではありません。
また、病をいやすというレベルではありません。
病気が癒やされ、金持ちになり、裕福になるのがゴールではなく、神々と戦うというのが日本の皆さんの向かうべき道です。
そこで、神々と戦うことができるのは真の礼拝者だということを覚えなければなりません。
もし、携挙のために祈る者がいるなら、そのような者はまず、日本の神々と戦う必要があるということを知らなければなりません。
日本には名前だけでなく、実際に神々がいるのです。
みなさんは日本に実際に住んでいるので気づかないこともあるでしょう。
しかし、私が日本に来て一番最初に感じるのは日本の人々の顔つきです。
多くの人は生きる気力がないのをその表情から感じます。
日本の人が聖霊様によって顔が輝くようになることを願います。
日本人は礼儀正しい民族です。
しかし、今は中の気力が抜けてしまったような顔になっているのではないでしょうか。
これは戦争です。
なぜ生きる気力がないのでしょうか。
何がそれを奪っていってしまったのでしょうか。
神様が創造した人間の麗しさを奪ったものは何でしょうか。
この悔しい思いを持って祈るべきなのです。
イエス様の名前を呼んでください。血潮を主張してください。
日本の神々と戦ってください。
イエス様のみことばの剣を握るサムライとなろうではありませんか。
■ イエス様に従う者の覚悟
イエス様を知っているという以上に大切な事は、日本のために死ぬことができるかどうかという事です。
韓国でもなく、日本でもなく、もっと重要なのは神の国です。
イエス様がわたしの命よりも大切なのではありませんか。
ということは、私たちは最も危険な選択をしているということになります。
イエス様を愛するということは、どのような勢力よりも過激な心を持ったものとなるということです。
もう一度、主の祈りに目を向けてみましょう。
そこでは御国が来るようにと祈りました。
もし、その祈りをサタンが聞くなら、サタンにマークされるかもしれません。
なぜなら、この世のすべてはサタンの支配下にあるからです。
私たちがこの世に捨てられたように思える時、悲しむなら、それはイエス様に対して罪を犯す事になります。イエス様に恥をかかすことになってしまいます。
あなたはこの世に属しているものなのでしょうか。それとも、神の国に属しているものなのでしょうか。
どちらを失うのが悲しいことでしょうか。神の国ではないでしょうか。
日本は一度ことが起こると、誰も追いつけないほどの加速が増していくという特徴があるのではないかと思います。
だから、ここで捧げられる祈りが、的を絞ったものであるのであれば、必ずどんなことでも突破できると信じます。
だから、青年と共に働きをしていく必要があるのです。
青年は純粋な心を持っています。力があります。
ゴリアテを打ち倒したダビデのような勇者が立ち上がることを祝福します。
戦いの時には、主を前に置いて祈ることが大切です。
そうしなければならないのです。
なぜなら、敵がみんなを殺そうとするからです。
私は日本が、世界のどの宣教地よりも強力な戦争の雰囲気を感じます。
ですから、毎回の礼拝が戦争と思って礼拝を捧げる必要があるのではないでしょうか。
■ 黙示録の設計図。
建物を建築するときには設計図が必要です。
建築家は完成を描き設計図を作成し、家を建てる者はその設計図を見て、そのとおりに家を建てます。
同じように、黙示録を理解するには主が与えて下さった設計図を知る必要があります。
黙示録は全部で何章で構成されているでしょうか。
22章で構成されています。
これを、Chiasm(キアズム)という形態で見て行きたいと思います。
キアズムとは、中心で折り返すというユダヤ特有の考え方です。
下の図をご覧ください。
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