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祖父からのこされたもの、一文字の名前、本籍、頑固さ。

お初に見えるみなさん、はじめまして。

株式会社itakotoの代表を務める妹尾と申します。

当社は、「この世から、心のこりをなくしたい」を標榜し、みなさんに今一度心のこりを再確認してもらって前向きに足をふみだしていけるよう後押しするオンラインイベント「心のこりの栞」を開催しています。

このイベントに関して詳しくはリンクを見ていただき、是非みなさんの心のこりを吐き出してみてください。

このnoteでは、私が抱える心のこりを投稿させていただきます。

#私の心のこり #心のこりの栞

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毎朝起きるたびにより強く感じるキンと張った冷気に、そして夜になれば年を強引にでも締めくくろうとするかのような様々なテレビの特番に、年の暮れ、そして新たな年の始まりを予感する。

12月後半、この時期からはクリスマスから年越し、お正月とイベントが目白押しであり、日頃よりお世話になっている人や久々に会う懐かしい人まで様々な人と会う機会がうまれる。本来はだ。

昨年は、未曾有のコロナ禍で様々なイベントが中止となり、親戚で顔を合わせることすらも憚られた。積極的には顔を合わせたくないような人と付き合いで食事をともにする必要がなくなったと捉える都合の良い自分に気づく一方で、時間をとれる年始のみ会うような関係性の人間とも会うことがなくなってしまった。私でいうとそんな関係性は父方の親戚である。

私の父方の家系は比較的格式を重視する(ように子供心には感じた)家系であり、年始での家族全員の集まりに重きをおいた。逆に、年始にくらいしかわざわざ全員で集まろうとはしなかったようにも感じた。

そこでいつも一家の長として振る舞っていたのが、私の祖父であり、私は小さなときから彼のことを「おじいちゃま」と呼んでいた人である。彼は立派な医者として国立病院の院長を勤め、70を過ぎても現役で診療を続け、趣味の油絵では展覧会を開くような人間だった。野球で泥だらけになり、とにかくはしゃいで目立つことが好きなやんちゃ坊主の私はそんな祖父に対して距離感を感じていた。

特に中学生になった後には、日々を野球や楽しい学校生活に費やした私に対して「勉強しろ」と会うたびに伝えてきた。恵まれたことに親からも言われないその言葉に鬱陶しさを感じながらお年玉をもらうためだけに「はい、はい」と聞いていた気がする。

祖父は耳も悪く、会話した記憶にはすべて補聴器をつけた祖父がいる。補聴器をつけても何度も同じことを聞き返してくる祖父の隣に対しては親戚の皆が席を譲り合う空気をつくっていたように感じる。

そんな祖父が亡くなってもう6年が経とうとしている。その数字だけが異様に心に突き刺さる。祖父と最後に話したときのことははっきり思い出せないほど十分すぎる昔に感じるが、それを6年という数字がより強調する。

祖父は親戚のあつまりの際、必ずといっていいほど私のことを呼んで話しかけた。今になってはそのメッセージがただ「勉強しろ」だけだったのか、はたまた祖父からの愛情を感じられたものだったのか思い出す手段はない。

祖父の葬儀のときをよく思い出す。親戚で集まったのにいつもより一層厳かな雰囲気。いつも明るく気長に振る舞う祖母が震えていた。そして、焼いて砕けた骨を骨壷に入れる際に、係の人が「燃やしてもしっかり残っているなんて珍しいですよ」という係の人の言葉に親戚みんなで少し安堵を覚えたことをよく覚えている。直接話した内容よりも骨となった姿の方が記憶がなぜか鮮明にのこっている。

今となれば聞きたいことはきっとたくさんある。彼はどんな人生を送ったのか、何を自分に伝えたかったのか、何を大切にしてきたのか。

私と祖父との今のつながりは、祖父から父、そして私と繋がってきた漢字一文字の名前と、住んだこともない本籍地である福岡北小倉。そして、プライドの高さと頑固さであろう。祖父は頑固な人間だった。

今年は2年ぶりに親戚で集まる機会がつくられる。

今から祖父のためにできることはない。ましてや僕に伝えたかったメッセージを知ることはかなわない。でも、のこしてくれた血のつながりを感じながら時間を過ごせることは確実だ。

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