徒然1

なんだかよくわからないことを書き始めようと。noteを久しぶりに開いた。色々と考えることがありすぎて、あたまがぐるぐるとしているので、「かつてのように」キーボードを叩き続けて、それでなにかがまとまればそれでいいと思う。

というか、半分以上願いのような気持ちで、この文章を書き始めた。

当然推敲なんて高尚なことはしないし、誤脱修正もしない。記憶違いや記憶が薄れていることも訂正しない。ここに書き連ねるのは、自分の中から漏れ出ているただの言の葉の成り損ないだ。

それでも読むという奇特な方は、読んでいただければと思う。読む人のことまるで考えないものになるだろうけれど。


話は10年ほど前になる。いや、それよりもう少し前に戻ろうか。ぼくが大学生だった時分の話だ。

往時、ぼくは進路だのなんだのよくわからないことに頭を悩まさない、なかなかに脳天気な人間だった。就職氷河期真っ最中ということもあったのだが、同期達とその苦しみを分かち合うこともなかった。

なぜかというと同期がいなかったからだ。いや、同期に入学した同級生達はいたが、彼らはぼくより1年半ほど早く卒業した。彼らがスキップしたのではなく、ぼくが留年したからだ。

脳みそが不出来だったこともあったのだが、バカはバカらしく、間抜けは間抜けらしく、そしてサボタージュを働いた結果である。勉強したいことがあって進学先に選んだ大学だったのだが、特定宗教がバックについていた。

強制ではないといいつつ、その特定宗教の概論を必修に据えたり、宗教儀式への出席を強制させられた。これにとんでもない忌避感を抱いて担当教官と大口論をした末にサボタージュを敢行して単位をすっ飛ばしたのが原因の一つ。若さ故の暴走というものはこういうところにある。


そしてもう一つは第二外国語の選択で北京語を希望したのに定員オーバーになったわけでもないのに仏語のクラスに回されたことに反発してサボタージュを敢行した。

なんというか若さとバカさの合わせ技の結果である。学費を出していただいていた両親に土下座をするレベルである(何度もしたが)。

ともあれ、そんなバカをやらかした結果、専門課程に進んだ学年で、どうしても受けたかった講義のコースと残留していた必修の際履修がかぶり、御美事なまでに第一ループに突入した。

だが他の単位は普通に取得できており、ゼミでも学生のくせに学会に参加させていただいたり研究に携わらせていただいたりという形で卒論免除&6年目に入るところをさっさと5年+半期のセメスター制で卒業させてもらえた。

ありがたいことにきちんと卒業式をしていただくこともできた。お世話になった教授にアカデミックガウンを羽織らせていただき、角帽をかぶせていただき、学長から卒業証書に万年筆でサインをいただき、学帽の飾房をかけかえていただけたのだ。

実にありがたい話である。二年連続で学生弁論大会で賞を与えてしまった手前、学校に名前が残るから後腐れなく対応してくれたのかな……なんて考えるのはさすがに天邪鬼が過ぎるだろうか。


ともあれ、そんな経緯でぼくは「新卒」からはぐれた。だが「卒業→新卒で会社に就職」という一般ルートから外れたことに対しては不安はなかった。

学生の間に「なりたいもの」「やりたいこと」に対して色々な方面からアプローチをしていたので(学業をおろそかにしたバカなので全く褒められない)、いくつかの進路は考えていたのだ。

5年目6年目の段階で、必要授業以外は大学に遊びに行く程度だったので、複数の仕事をかけもちしていた。時間給だったがボーナスが出たりしていたので、雇用形態はアルバイトだったのだかなんだかよくわからない。

学童保育所の指導員、中学生向け家庭学習教材のオンライン講師、整体・鍼・接骨院での助手、深夜のオフィスに入り込んでPCを大量にセットアップするとかいうわけのわからん仕事もやったし、その仕事の伝手で何故か夜のお仕事のお手伝いまでさせられた記憶まである。

写真現像店でデジタル修正や、年賀状や記念はがきデザインの仕事もしていた。賃貸不動産関係の仕事をしていたのもこの頃だ。そうそう、卒業する前からは「一年浪人」するつもりでいたので広告代理店にも入社した。

おかげである程度金があったので「学費」を準備して一年の浪人と予備校生活の末に次の学校に進んだ。医療系の資格を取得するために専門学校に進むつもりだったのだ。

学生を続ける期間を引き延ばすモラトリアムの様だが、一応ぼく自身の中では方向性が決まっていた。

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