フタを開けてみよう
臭い物に蓋(ふた)をする
とはよく言うが、
いつからか自分は「性」というこの漢字一文字から放たれるモノを臭いものに感じていた。
。。。
ニックネームを本名に変えてから記事を「考える」厚みが増したように感じている。
きっと周りからの視線を気にしているんだろう。
社会通念上、
「考える」ことは崇高であって否定されるような行為ではない。
が、
noteにおいては邪魔になるときはある。というか基本的に邪魔だと思う。もちろん考えなしで人を傷つけることは極力避けたいことだけれど。
それでも、
自分のあるがままの感性を理性が上から抑えつけるのはここではナンセンスな場合もある。リアルの人間関係もそうじゃないのかな。
"周りを傷つけたくない"
"これを書いてしまったら。。。"
"知人の顔に泥を塗るようなことはしたくない"
考えれば考えるほど、自分のnoteは本当の自分から遠ざかっていく。
果たしてそんなnoteに意味があるのだろうか。語弊を恐れずに言えば、そこいらにあるnoteとなにも変わらないんじゃないか。
そう思っても、
やっぱり考えてる。
。。。
重くのしかかった蓋。
本当に開け難いものだ。
けれど、
少しずつ開ける試みを。
そうやって自分を突き動かす一助となってくれたのが「詢川華子」さんの記事。
「性」についてこんなにも軽快に溌剌(はつらつ)とコミカルに、そして真剣に執筆される方がいる。
自分にとって臭いものに果敢に攻める詢川さん。会ったことはないけれど、その記事はどれも度肝を抜いた。
いつしか
自分の心情は鮮やかに彩られたその記事たちに共鳴し、今回の記事に誘われる(いざなわれる)ことになった。
。。。
とはいっても、
テーマは
「優しい性」
頭の中をこねくり回してもテーマに合ったエピソードが見当たらない。
そもそも自分の中に
優しさ×性
が両立していないのだから。冒頭で述べたように自分にとって「性」は臭いものなんだ。挫折。
。。。
が、
ここで話の骨を折るつもりはない。
少しニュアンスは違うかもしれないけれど
どちらかと言うと自分は性について寛容だ。
なぜかと言えば
臭いと思ってる人の気持ちが分かる
から。人を受け入れる寛容さ、という意味ではそれは一種の優しさと言ってもいいかもしれない。
自分の経験としては「汚なさ×性」だったはずなのに、いざ人の経験にフォーカスをあてると「優しさ×性」が両立する。
そう考えると、
今回のテーマ
「優しい性」
は経験やエピソードというより、自分の中に宿る一つ感性を思い出させてくれたようにも思う。
。。。
ここまで文字を走らせてきたけれど、
やっぱり自分が慕っていた剣道の師(40代のおっさん)に寝ているところ夜這いしかけられた過去を晒す(さらす)ことなんて思い出すだけで頭に血がのぼるし、恥ずかしくてできやしない。
あっ。。。
蓋が開きました。くさっ
詢川さんありがとうございます。
読んでいただいたみなさんもありがとうございます。
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