最聖平地人・中島らもさんに寄せて

僕はキリスト教の考え方でわかり兼ねる事が結構あったのだけど、イエス・キリストが死後に復活したと云う伝説は、この様にして、自主的に追悼を行う者らがいたって事じゃないかと考えたりもするんだよ。
あと、僕が中学生の頃にプロテスタント教会で聴いた解釈【信徒の集う場にはキリストが同時に存在している】と云うのも同様に、この様な複数集団の思い返しに拠る、脳内再生の内容そのものを指すのではないかと考える。

キリスト教で云う聖者聖人は、いわゆるリベラルアーツ(科学技術や思想哲学や学問)の従事者を指す事も多かろう。

そんなら、現代日本に置き換えて考えてみると、中島らもさんこそが最聖なる市井の平地人なのだろう。
大昔には、頭の切れる人材を正統に評価するのも、宗教の枠組みにおさめるしか選択肢が無かったんだろう。
嘗ては、頭のいい人を正確に語るための言葉を持っていなかった、伝達方法や表現手法が貧しかった、それだけの事だったのだろうけども。
ヒトの想像力は何と低かった事か。

中島らもさんの最聖たる由縁は、頭は凄まじく切れるけど、同時に、己の不甲斐無さや愚かしさやだらし無さといった弱点をうけ容れていた事による。
まず自分を容認しない者が他者をも容認するのは無理なんだから、宗教の枠組みから離れた現代に於いて、優れた表現者がイコール聖人君子である必要も無い訳ですよ。
みんな、中島らもさんの本や歌で助かっただろ?

(後でまた加筆するかもしれない)

アテクシは一介のサブカルクソ野郎で結構で御座いますよ。