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「自分」を育っていく途中

この前の満月の夜、Yさんとご飯を食べた。
「なんか切り絵みたいな月~、そういや今夜満月だ」と待ち合わせ場所で思ったので覚えている。

個人的な話をしたり。それって全く必要としていない」と言ったのはどこのどいつじゃ、二言ありまくっておる。
最後の挨拶で会ったとき、一瞬Yさんの目に見えた色がその後も気になっていた。それは、いつもきびきび働いていたYさんの、素の部分なんだろう。とても豊かなものの予感がして、もう少し見てみたくなったんです。

車に乗ってごく自然にYさんは話しはじめた、私が知ってたより少し低い素のトーンで。私も違和感なく普通のトーンで受けこたえした(こういう場面で私が接客モードにならない、それって本当にめずらしいことなのだ)。
実はめちゃ短気なこと、若い頃しょっちゅうケンカして仕事やめてたこと。30のとき周りに誰もいなくなっていろいろ「そうか」と思ったこと、1人暮らしが合ってて楽なこと。辛いものが好きでコチュジャンを業務用パックで買うこと、すぐなくなること。

こうやって書いても感じた10分の1も表せなくてちょっと悔しいのだが、そのときとても静かに私は感じ入っていた。

人と話していると、言葉の裏の気持ちが多かれ少なかれ見える。
「一生懸命生きてること分かってほしい、ほめてほしい」
「とにかく『すごいなあ』と思ってほしい」
「どうせ自分なんか社会的地位もないし…(いじけ)」
「ほんとはこんなとこで終わる人間じゃないのに」
それら自体はあるからある、それだけだ。敏感に反応してしまうので、私が個人的に苦手なだけである。

だけどYさんからは、それらが欠片も感じられなかった。発する言葉がそれ以上でも以下でもない。意図がない。男性が20歳下の人にしゃべるケースで、それが稀有であることを経験上知っていた。
この人、本気でただ単に生きてるんだ。全然「すごい人」じゃない人生を生きて、つまづくところでしっかりつまづいて、学んで、また生きる。それだけやってきた人なんだ。だから話を聞いていて、感じよくきびきび働く姿も、短気でケンカっぱやく実は今も人に合わせるの嫌いであろう姿も、「嫌なものは嫌、でもやるならやる」という姿も、全く違和感なく1つのイメージにまとまっていく。別のものになろうという発想がないんだ、大根に生まれて大根でしかなかった人生なんだ。「美しいものを見ている」という気持ちで隣に座っていた。

「staphyさんを嫌いな人なんていないでしょう?いたら単にそいつがダメなやつなだけだよ」と言われる。「いや、私も未熟なので…」とふがいなさをごにょごにょつぶやくと「それを20代でできる人なんていないでしょう。経験がね、いるからね~」と少しあきれられる。私はなんでいつも背伸びするんだろう、と自分でも自分にあきれる。「大丈夫だよ、そのまますくすく育てばいいんだよ」と言われ、こんな健やかな「すくすく」という音聞いたことないなと思う。

そのとき思った。明らかにYさんは私の仕事での一面を過大評価しているが笑、でもきっとそれだけじゃない。こんな未熟な私にも、生まれたときから変わらず持っているものがあるんだ。それがなんなのか自分で輪郭をつかめないが、成熟度合いと関係なく、誰かにとって「よきもの」になったりするんだ。それはみんなが、誰かにとって、そうなんだ。言い古されてきたこと、だけど今まで見たことない角度でリアルに、その場で私は感じた。

「大食いだから余ったら全部食べる」と言うので頼んだ大量のピザやパスタたち。
「あれ、思ってたよりお腹いっぱい。喋りながらゆっくり食べたからかな」と言われ、あわてて一生懸命2人で詰め込んだ。自分一人の世界じゃないと、想定って狂うよな~、わかる気がする。

家に帰って、とっても元気が出ている自分に気がついた。
そうか、「自分の」人生に現れるものたち、それにただ応じて学んでいけば、大人になれるんだ。それだけで、いいんだ。
そんな私の言葉だと少し浮いてしまうこと、それを完全に無自覚で、ただ生きることで見せてくれる人がいる。それってわざわざ体をもって生まれてくることの意味、自分以外の他者がいることの意味。すごい。

「豊かなもの」の予感、まちがってなかったな。
1つずつ学んで、生きていくのが楽しみだな。
「自分」の人生を、すくすく育っていきたいな。
そんな幸せな気持ちで、その夜は眠りにつきました。

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