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文を書くのをつづけよう。

今日でnoteにノートを書き始めて1年がたちました。
文を書くのをはじめよう、この日から、と1年ちょっと前に思って、それから書いてみてきました。
いろんな感覚はあるけど、思ったより楽しかったです。

中学高校の6年間、私は寮にいて、いろんなことが制限される中、日記をつけようと思った。
そして分厚い5年日記を買い、毎日つけた。
書き終えたらまた次の5年日記を買って。
そうやって生き延びた。

重くて悲しくて、でも捨てられなかった日記を、数年ぶりに開いてみた。
そして、記憶の中よりもっと辛い文章だった。

毎日ここにいられることへの感謝。
もっと成長しなければという決意。
そして自分の未熟さへの自責の念。
感情が、その数直線上にしかなかった。

そうだった、と思いだした。
ほんとうは、もっと気持ちにいろんな色を感じていた。「正しい」色だけでなく。
でもそれを言葉にすると、意識に上らせると、ここにはいられない。
ましてや書き残すなど。
それでも、気持ちがここまで窮屈だったなんて、改めてかなりのショックを受けた。

救いだったのは、
そこからはみ出した言葉たち。
テスト期間クラスの男子と鬼ごっこしたこと。
雪が降った日はしゃいだこと。
誕生日の前日、毎年「この1年間生きてこられてよかった」と思っていたこと。
高3のとき(ガチガチに恋愛禁止だったのに)人を好きになって、制御できない気持ちでいたこと。

そして、言葉にしなくても鮮明に残っている思い出。
大好きな白い梅の木。
高3の放課後寮に帰るまで、夕日の中友達としゃべっていたこと。
卒業の日窓を開けたらどっと舞い込んできた雪。
日記にはさんでいた紅葉。

そんなことが胸をかけめぐって、
1年前なんで文を書いてみたいと思ったか、分かった気がした。
心をそのまま文にしてみたかったのだ。
正直にそのまま文を書くことがなかった。
いや、その時は正直だったつもりなんだろう、意識の1番上では。
自分の心の奥底への、誠実さと敬意がなかっただけだ。
ほんとうの人間の心の動きって、そういうものじゃあない、ということを、直で見られなかっただけだ。

だから、思う存分書いてみたい。
文の方を、心に近づけていきたい。
なかなかうまくできないけど、少しずつでも、間違えながらでもいい。
自分を納得させるための文章を書くんじゃなくて、
できるだけそのままの文章を書いて、自分で納得したい。
そんな願いが、自分の中にとても強く光っていることがよく分かって、おどろいた。

その小さな実験・挑戦・リハビリを、これからもつづけていこうと思います。
高校を卒業した日に、
文を書きはじめた日に、
その気持ちをちゃんと分かれて、書けて、よかったと思いました。

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