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はきちがえる自由をつれていけないわ

今日のお昼、元彼と友達の夫婦に「もうこれから会えない・連絡を取れない」と伝えてきた。

とってもイレギュラーな関係性で、うまく説明できないので簡潔に。
私がほぼすべての人と縁を切ったとき、つながってたのはほんとにこの2人だけだった。元彼と同棲している家に友達がよく泊まりに来てくれた。私が今生き残っているのは8割5分2人のおかげだ。

私の希望で同棲を解消し東京で働き始めたとき、私にはすでに「別れよう…切り出さなくては…」という気の重さがあった。だから渡りに船だったはずなのだ、2人が関係を持ったのは。
あんなぽっかり穴が空いた気持ちになったり、うまく理解しきれない状態になることに、遠くで見てるもう1人の自分が驚いていた。現実感が失われていた。
ちゃんと別れた。「おめでとう」といった記憶が微かにある。
(これらの反応はごく普通だと今なら分かるのですが、当時はピンときていませんでした)

ただ、その数ヶ月後妊娠の知らせを聞いたとき、急に現実感が戻ってきて
「宇宙ってほんますげーー!!間違わないな!!!」
と、非常に静かに思った。すべてがこうなるべきだった、とはっきり分かった。エモーショナルでも空元気でもなく、ひたすら静かな場所で「ただの真実」を見た、という気持ち。世界の整合性を垣間見た気持ち。

その受け止め方を、私は人間関係に戻ってくるとき間違えた。一度そう思ったのだから、2人を祝福し続けなければならない、と思ってしまったのだ。

だから請われるがままに、婚姻届に証人としてサインし、赤ちゃんの名前を考え(結局採用されなくて本当によかった)、呼び出されるままに遊びに(子守りに)行ったり、した。
時々「あれ、なんで私こんなことしてるんだっけ?」と思う瞬間はあった。でもそれ以上考えられなかった(アホ)。
綿矢りささん『かわいそうだね?』を読んだ方は思い出していただけると助かります。全体的におかしな状況になっていても、当事者の一つ一つの選択は大真面目なんです。

3年半ほどたった昨日、しみじみ考え直して分かったことたち。

あの日見た真実は「人生と私との関係」においてのものだったのだ。そしてそれは同時に「その瞬間」道が二つに分かれたこともはっきり指し示していた。これから先は一緒にはいけないよ、と。
それを私は「彼女たちと私の関係」に戻ってくるとき翻訳を間違えた。「祝福されるべきもの」は「私がすべて受け入れるべきもの」ではなかったし、「幸せを心から願う」ことは「これからもそばで応援する」ことではなかった。
要因は両者の甘えにつきると思う。「その瞬間」を逃した私は沼にはまり、先述の通り「あれ?」と思ってもどうにもできなくなっていた。

だけどまた「その瞬間」がめぐってきた。
なにかがおかしい。
この生地のたゆみは、明らかにボタンひとつかけ違えている。
そのことを、やっと直視できた。

そう気づいてからは粛々と、連絡を取り今日会う約束を取り付けた。
粛々と「本当に感謝している。だけどあの時道が分かれたことをごまかしてしまった。今気づいたから、今分かれていきたい」と伝えた。
粛々と受け入れてもらった。
粛々と家に帰り昼寝した。

「あれ、なんで私は愛してたはずの人たちともう一緒にいられなくなって、別れなきゃいけないんだっけ?もう少しなにかが違ったら、こうならなくてすんだかも」と思うときが、人生で何度もあった。これからもあるなら、辛いな、と思うことも。

でも、道は分かれるから。人生は静かに真実を見せるから。それに目をつぶるとなにかが歪むから。
だから、そんなこと思うような甘ったれでも、一歩ずつ進むしかない。
「その瞬間」を逃さないこと、一つ一つから学ぶこと、今一緒にいられる人を愛すること。それらをたったひとりで地道にやるしかない。

そんなときでも変わらずそこにある「人生」が、ただただ私を見ているのだった。

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