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「人のいいところだけ見える病」

春分、休み、さいこー、天気もいい。休みなのに割と早めに起きられたし。ひさしぶりに『スナックちどり』が読みたくなって窓際のベッドでごろごろ読む。そしたらびっくりした。改めて読んでみて、主人公さっちゃんの元夫が前職での私にそっくりだったのだ。

私にはけっこう強固な心の癖があった。人と出会うとき、一部分に虫眼鏡をあてたみたいに、少し世界がぐにゃっとして「この人のこういうところ、本当にすてきだな」と思うのである。たとえ自分と友達にならないタイプであっても「その人のすてきなところ」がズームで見えてしまう。だから「人間って皆違ってすばらしいってのは本当なんだな。そう思えないのは、そのすばらしさが見えない自分の眼にこそ原因があるんだ」とか、マジで思っていた。「相性がめちゃくちゃ良いわけじゃない人」はいても「嫌いな人」がいなかった。その人の「すてきなところ」を好きでいられないことがなかったのだ。(大学のときほぼ全ての人と縁を切ることになったのは自分のその歪みが招いたことでもあったのに、本当に変わらないやつだ。人間は変わらないのだということがしみじみ分かる)

その習性を前職の接客に生かした。すると自分が思っていたよりはるかにそれは喜ばれた。「やっぱりみんな、心は寄り添われたいし、自分のことを誰かに分かってほしいんだ」そう思って一生懸命のめりこんだ(今思うとそれってすっごくスケベでいやらしい心持ちだ)。そこでの感じはさっちゃん元夫そっくり。おせじでもおべっかでもなく本気でそう思ってるし言ってる。強い念みたいなのの周りに磁場が生まれ、そこに周囲を巻き込んでいく感じとか。

そのスタンスで仕事にもう少しでも熱狂していたら、間違いなく今も「親切で変わってる愉快なお姉さん」のままそこで働きつづけていただろう。でも、自分の習性を仕事に持ち込んで120%に増幅させていたことにより、破綻も早めに決定的にきた。体を徹底的に壊した。自分がなにを感じているのか分からなくなった。「このままでやっていっちゃだめなのは分かる、でも渦の中すぎてなにがおかしくなってるのかが分からない」「お客さんのために全力を尽くしてるはずなのに、お客さんにとても失礼な気がする、でもそれがどうしてか分からない」

そんな中、声占いちえこさんに行く機会があった。
「だってあなた本当のことを全く言わないんだもの」
「あなたはその(真実の)重みに耐えられない」
と言われたとき、それは、何よりもずしっと胸に残った。

私は仕事を辞めた。そして庶務の仕事に就いた。(ちえこさんには、接客は向いてるから小さなジョブを打って粘ってみたらと言われたが、渦にどっぷりとはまってしまっていて一旦抜け出さないと自分で自分を整理できなかった。要するに限界だった)
ちえこさんのその言葉を、苦い飴のようにこの1年半近くなめつづけてきた。

今思うこと。
「お客さんに失礼な気がする」という直感ばっちり当たってましたね。そりゃ失礼だよね。
ある箇所へズームがはたらくということは、同時にある部分へのトリミングが行われている。それって全体をただただ見た上ですばらしさに胸打たれることと、正反対のことだ。見たくないことは見ないで浮かれるというだけだから。どれだけ「ほんとのこと」で、そこにのめり込んで全力でも、見たくないもの・決めたくないことへの逃げが必ず入っているなら、それは必ず自他を害する。それって、相手に対して本当に失礼なことだ。そして自分の立ってる世界もどんどん歪んでいく。そりゃいろんなことが分からなくなる。

「人のいいところだけ見える病」は「不都合な全体の重みから逃げたい病」だった。

本当は、最初の最初に全体の予感が見えている。でも認識したくなかった。全部を認識した上で、生きる世界の違う相手への敬意と、適切な距離感を持てばいいだけの話だったのに。でもそれができるほど、1人で立てなかった。それだけなんだろう。

ちょっとずつ自分がしてきたことを分かってきて、今の仕事では「目の前の人に今この瞬間いい気分でいてもらう」ことを、やめようとしてきた。体がそっちの方に動くと、一歩引く、というように。周りがお客さんではなく同僚なので、その実験はまだやりやすかった。それでも、電車に乗ったら端に立つ自然さでそっちに行こうとする自分を、軽い力で止めておくのは、本当に苦しい感じがある。ヤクを抜くってこんな感じなのかなあ。

いろんな人がいて、どんどんそれぞれの世界に分かれていって。だからいいと思う、磁場使いは磁場使いでいれば。需要があるのはよく知っているし。当時の自分のあり方を、心から反省している、でも責めはしない。

でも、体が「違う」と立ち止まらせてくれたからには、そこを見ていきたかった。表面をぺかぺかに光らせて、汚いものは無意識の方にどんどん投げ込んでいくようなことは、もういいかなと思った。「全力」で生きていると思ってるのに心のどこかがひやっとする感じはもう終わりにしたくて、地味だけど自分で立ってる、遅いし道間違えるけど自分の足で歩いていく感じが、よかった。なかなか変わらなくても、そっちの方に歩きたいんだ、と思った。

そして離れたからこそ、ほれぼれするほど美しかったお客さんたちの姿が心に残っている。あんな青二才の調子いいだけの店員に対して、ただただそのままいてくださったこと。「この子がいい気分にさせてくれるから」ではなく「この子も道の途中なんだな」とだけ思って、やさしい気持ちで淡々と通ってくださったこと。共に過ごした時間の中で、その姿勢だけで人生の豊かさって何なのか示してくださったこと。それが、宝だ。心から感謝しています。

そういうことを一つ一つ考えながら、お花見をして、気がついたら三連休が終わっていた。
もう春ですね。空気がやわらかくてやさしくて、「ああ春ってこんな感じだった」と思い出しました。

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