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昔話を見送る

灯籠流しには少し早いですが、悲しかった昔話を「もういいじゃん」と思ったので、見送りたいと思います。

私は小3の途中から小6までソフトボールをやっていました。
当時小1の2番目が先にやっており、ひょんなことから私も入団することになりました。私の当初の気持ちとしては「隣の小学校へ行った初恋の人と会える!」くらいの軽いものでした。

やりはじめてまもなく、大嫌いになりました。週6の拘束が、理不尽な監督コーチが、窮屈なユニフォームが、耐えられなくなったんですね。そして別にソフトボールは元々好きでもなんでもありませんでした。

ですが時を同じくして我が家は引っ越し、練習へは車の送迎なしに行けなくなりました。そこから地獄の逃避行がはじまりました。

ここで私の父がどのような人か、少しだけですが話しておく必要があります。
ちょっと特徴を話すと、見た目:『千と千尋~』の豚になったお父さん、中身:星一徹、です。
一度入ったものに行かないことがばれると、半殺しでも連行されることは目に見えていました。

間に立つことになる母は、実質平日の送迎担当でした。
こんなチーム続ける必要はない、と思っていたと思います。ですが、父はそれを許さず半殺しにするに違いない。また、やっぱり一度はじめたことを続けるのには意味があるのかもしれない。そして、なんだかんだ離婚はできない、子どもがかわいそう(きょうだいは私以外の全員が離婚を望んでましたが)。
母も相当気が強く、他のことについてはいつも死ぬほど父とやり合っていました。ですが、ソフトボールについてはそんな迷いが母の中にあったようでした。たいていの場合母は私を連行しました。

私は逃げまくりました。学校が終わると市の図書館へ駆け込む。友達の家に潜り込み、ポケモンゲームやってるのを見せてもらう。通学路で川や海をぼーっと眺める。ですがそのいずれにも母は迎えにきました。えびのように体を反って抵抗しましたが、結局は連れて行かれました。

車の中でいつも「なんであんなやつが父さんなん?!」と泣き叫び、母はいつも「世の中にはもっと大変な父さんがおる家もあるんよ、大変なんはあんただけじゃない」と言いました。
私は「他の家も大変かもしれんけど、それと私は関係ない。私の今しかない小学生の時間が失われてくことと関係ない。大事なんは、今ここで、私が死ぬ気でやじゃってことじゃろ」といつも言いました。
まったくもってその通りだと、今の私も思います。私は母を愛してますが、このときの母の判断は「違う」と、今でもきっぱり思っています。

練習では、とにかく子どもをいびってストレス解消している監督コーチが嫌いでした。私は「へぼいくせに気だけ強い」を人にしたような子どもでした。

(コーチ)「お前そんな球も捕れんのか!」
(私)「はい、捕れません」(睨み)
(監督)「やる気ないなら帰れ!!!」
(私)「帰ります」
(監督)「根性焼き直しちゃる、後ろ向け!!!」(←ケツバットのため)
(私)「いやです」(最大級睨み)

まあ結局しばかれるんですけど、足はがくぶるなんですけど。「こいつらに怒鳴りゃええとなめられるんはいやじゃ」と本気で思ってました。今でもチーム内で「へぼいくせに気だけ強かった」私は語り草になってると聞きました。

連行も地獄、いってからも地獄、の日々を2年半、懲りずに抵抗を延々と繰り返しました。私は顎だけになっても離さないワニのようにしつこかったのでした。

ですが6年のある日、それは急にやってきました。試合の予定表を見ながら「あとこれを4週×数ヶ月耐えれば終わる」と思ったとき、心の中で何かがぽきっと折れた音がしたのでした。もう抵抗するのがどうでも良くなったのです。(あれだけ聞き分けが悪かったのに!)
あと数ヶ月粛々と耐えよう。そういえばなんだかんだ、ソフトやってたおかげで忍耐力ついたかもしれんしな。急にそう思った自分がなんだか大人になったような気がして、あとは無になって通いました。最後まで全てのソフトボール関連が嫌いでしたが、やり通しました。このことは後々思えば、意志を折ったという経験を自分の中に残したようです。

ですが、下のきょうだいが多いと辛いことってなんだと思いますか。それは、自分が通ってきた、同じ親が生み出した悲しみを、きょうだいが全く同じように通るのを、見てないといけない、ということです。実際2番目や3番目は、私が6年の頃には星飛雄馬並みの自主トレまで父から受けていました。本当に見るに耐えないものでした。

これはお子さんをお持ちの方もそうなのでは、と想像するのですが、自分がしんどい方がよっぽど楽なのです。自分に降りかかってくることは、逃げたり戦ったり堪え忍んだりと、自分でアクションできるので。ですが、自分以外の大事な人が苦しんでいる、自分はなにもできない、というのはシンプルに生き地獄です。

明確に言語化してはいなかったのですが、私には「このままだといつか父さんを金属バットで殴り殺すことになる」という予感がありました。これは今思っても、そんなにはずれない予感だったろうと残念ながら思います。

私は家を出ることにしました。父が望んでいたことでもあったのですが、私は私の事情で寮に入ることを決めました。

その選択は、妹弟の助けには全くならなかった、力がなかった、ごめんなさい。でも私は、父のことも殺したくなかった、生きててほしかったのです。どんなときでも、結局父のことを愛していたんだと思います、今でもです。
猛勉強して無事合格し、寮に入り、そのあとはけっこうきつかったですが、それでもこの道を選んだ、当たり前に、と思います。

以上が昔話です。

「よなよな」で少しこの話になったとき、吉本ばななさんから言われたことにはっとしました。孫悟空の頭の輪っかがとれた感じ(?)です。

私が経てきたことは、形や種類を変えてみなさんにあるんだ。私は無意識に自分へぐっとベクトルを向けていたんだ。そのことは母が昔言った「あなただけが大変なんじゃない」とは全く違う。そう本気で腑に落ちました。
そしてだから大丈夫だ、とうまくいえないですがそう思いました。みんなにあって、みんなそれを手放してきた、人ってすごいな、そんな気持ちです。
私はもう二度とあんな思いをしなくていいのでした。全てはほんとに過ぎ去ったのでした。

この関連のことで少し心が動揺し、あまり心地よくない言葉を発したかもしれません。不快な思いをさせた方には心から、ごめんなさいとお伝えしたいです。

そして、きょうだいたちも(5番目は渦中ですが)大きくなった今、もういいかなと思います。
小さな悲しかったお話が、光りながら旅立っていくのを、見送りたいと思います。

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