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『好き』

「そうか、私、高橋留美子さんの絵が好きなんだ」
10月半ばのことだった。
仕事帰り、いつものように一駅歩いていた時、その言葉がぽつんと胸の中に来た。
その時にはすでに、体全体にその感情は染みわたっていた。体の方がじわじわ先に、気づいていたのだと思う。

私にとって「私が本当に好きなもの」に気づくのは、本当に難しい。
特に、目の前で誰かに何かを熱心におすすめされた時など尚更だ。

何が起きるかというと、「目の前の人がどういう気持ちでその対象を好きなのか」が言葉にしない部分まで分かってしまう。もっと言うと、それが「私の感情」として内に入り込んでしまう。
そこにプラスである程度「私が好きになりそうな理由」がスパイスとしてまぶされるので、相手からしたらまさか私がそんな事になってるなど思っていない。
「うわあこんなに気持ちを分かってくれて、かつ今までなかった視点まで見せてくれるなんて!」となってしまうのです。

その時点で17回は、私は自分に問うている、「それは私が本当に感じたことなの?」と。
ちゃんと点検して、「間違いない、今回はちゃんと私の感情」とその時は思う。

でもほとんどの場合、かなり時間がたって気づくのだ、「あれは私の根っこからくる感情じゃなかった」と。
同時にどっとくる疲れ(魂をちょっとずつ歪めた負担によるもの)に、悲しくて申し訳ない気持ちになる。相手にも、おすすめされた対象にも、自分にも、本当に失礼だなって。

だからこの1〜2年、私個人へのおすすめからはふんわり逃げている。おすすめされても、できるだけ見ない・触れないようにしている。多くの人が心がけることと逆ですね(苦笑)。
でも本当に縁があるものとは、そう心がけていたとしても自ずと触れる。また、私個人へでないおすすめなら、距離感を持って楽しめる。そしてもちろん、私から「おすすめしてほしい」と請うたものはちゃんとチェックする。そうやって試行錯誤しつつ、バランスをとっている。

「私が本当に好きなもの」に気づく時は、「おすすめされたもの」への反応と違い、とってもゆっくりだ。

まず先に、体が勝手にゆるんでいる。無意識に「それのそばにいたい」という感覚をおぼえる。呼吸が深くなる。じわじわと何かが満ちる。
そうやって時が熟し、やっと「あ、好きなんだ」と気づく。

職場で高橋留美子さん本に囲まれる時期があり、その間かなりハードだったはずなのに、少しずつ元気になっていったのだ。あれ、こんなにやることあるのに、思ったほど疲れてないな。なんだか早く職場に行きたい気がする。それらは意識にのぼるほどの劇的な変化ではないのだけど、確実に私の体を少しずつ作りかえた。

『らんま1/2』だけは、小学校のころ少し読んだことがあった。習い事に行きたくなくて逃げていた図書館に少しだけ置いてあったのだ(図書館のマンガって永遠に歯抜けですよね…)。だから、懐かしいな〜という自覚はあった。

でも、もっと、実は、かなり、『好き』だった。
線の1つひとつが。水彩の色づかいが。
女の子の体のラインが。愉快さの温度が。
全体から立ち上る気の良さが。
多くを存じ上げないが、高橋留美子さんのその部分は、ずっと変わっていない気がする。

『好き』に気づいてから、短編含めて全作品、3週間かけてこつこつ読んだ。
どの作品もそれぞれ素晴らしくて、悲しい話にも、楽しい話にも、変わらない何かを見た。
なにしろ絵を眺めるだけで自分の何かが回復するのだ。「イケメン見るだけで癒やされる」と言う人はこんな気持ちなのかもしれない。たまご酒をちびちびと飲んでいる気分だった(飲んだことないけどイメージ)。

私は『好き』を「甘くてすてきできらきらしている」だけの気持ちだと思っていない。
『好き』の裏にある凶暴性を、相手を食らいつくさんとするエネルギーを、本人も無自覚のうちにふるっている暴力を、何度も見た。

本当の『好き』って「その人がその人として生きている根っこ」に、深く関わっているのだと思う。
なんで『好き』なのか、それらしい理由をあげることはできても、決定的に因果関係をときあかすことはできない。
例えば、私がテンちゃんを好きなのは、きょうだいが多くて弟が好きだからと言えるかもしれないが、じゃあなぜ七宝ちゃんじゃだめなの?とか、そのあたりはもう分からない、それと同じこと。(七宝ちゃんもふつうに好きですが笑)
そこは「その人がそう生まれた」という絶対的な宇宙の流れの領域なんだと思う。

そして『好き』は「根っこ」に関わるから、良い悪いではなく、強い。
強いから、命をつなぐ助けにもなる。自身を翻弄し他を害する力にもなる。

だから願わくは、『好き』の取り違えはできるだけ減らしたい。
そして『好き』を、きゅっと思い詰めて、狭く固くしたくない。ふんわりと余地を残して、発酵するのを感じながら、やさしく胸に抱いていたい。

静かに命の力となってくれた『好き』たち、きっとその方が生き生きと喜んでくれる、そんな気がする。

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