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くたくたなじむ

1月はいぬる、2月はにげる、3月はさるけれど、あっという間の1月だった…!びっくり。
月単位で動く今の職場、1月は私にとってばたばたした月だったけど、あらためて体感したことがあったから、書きながら考えをまとめたい。

最近、体と心が、同じ質感・同じ大きさでひとつになじんでいる。そういうときが増えた。

前は、体は大きくて角張っている箱、心はその中に入るちっぽけで固い球、という感じだった。
緩衝材もなく入っていて、外からの振動でガコンガコンあちこちにぶつかる。
怖いことがあると「ひえ~~~(泣)」と飛び上がって箱の片隅にうずくまる。
怒ると箱と球の動く方向がバラバラで分解していく感じがする。
嬉しくてハイになると、球が風船のように浮き上がり、つられて箱もちょっと浮いてしまう。そんな感じだった。

球が箱の隅(たいてい肩~首のあたり)でうずくまっちゃっているとき、足を触るとよその物体のような感覚になる。「自分の体の一部」と頭で知ってても、例えば足先がこんなに冷たいのに、内側からの実感として分からないんですね。

ほんとにやばいなって状態までいくと、体を少しでも緩めたら、もう立て直せないくらい体調が崩れる。だから翌日も仕事の日は、帰宅しても体の緊張を持続させ解かないようにする。布団の中でも手足を伸ばさずギュッと丸まっている。そうやって凌ぎ、休日どっと体調を崩す。そんなことを繰り返していた。
そういう安定感のなさ、偏りが日常であり当たり前だった。

だから1月、出社したときの感覚にふと気づいたときはっとした。いろいろあっても、会社につくと、ちゃんと腰骨のあたりに心が鎮座し、体の全体にいられた。アクシデントが起きても、一旦そこで受け止めて、応じることができた。
帰り道・家の中でも、心は、きらっと空を駆け回るでも、固く重たく沈むでもなく、淡々と体に満ちていた。

あれだけギャップがあって別物だった体と心が、なんだかなじんできたのだ、いっぱい一緒に歩いたブーツのように。

ほ~ん、と思った。なんでだろう。少し考える。

1つは、「今ここにいていい」と体が思える場所に、職場や自宅が育った。自分の部屋なんてもう、体内か?と思うくらいの発達を遂げている(?)。

もう1つは「自分の感情の手触りを知った」ことが関係しているのかもしれない。

「誰に言うでもない。変に掘り下げたり、頭で説明するでもない。ただ、自分の中に起こったささいな感情・感触の変化に、一旦気づいてみようかな。そのあとすぐ忘れていい、一旦ただ書き留めて、大きななにかにそれを見せよう」

いつからかもなぜそう思ったのかも覚えていないが、気軽にスクショするような気持ちでやってみていた。
「今イラッとしたんだな」
「今お腹の底がひやっとした」
「今心臓が変なドキドキの仕方した」
私は自分の感情にほんと鈍いところがあるが、体の感触を見ることはかなりの学びになった。

このスクショみたいなことをやってみて、「自分はまじでしょうもない人間なんだな笑」としみじみ実感できた。笑

ちょうど、あまり触れてないと「普通」という認識でしかない足、毎日触っていると「ここが固い」「ここのむくみすごい」「今日は変な色」などと分かってくる感じ。
今までどれだけ自分の心をある程度の「想定」の中にしか見ていなかったか。実際はどれだけその「想定」よりみみっちくて臆病で器小さいか。よく分かってきた。
変な角張や萎縮がとれて、ただの等身大へ還っていく。
ぴかぴか、シャキッじゃなくて、くたくた、よれよれへ。
それを手触りで感じたことが、体と心のなじみに関係しているのは、確かだと思う。
私はなじんでくたくたの革製品が好きなことも、ついでに思い出した。

なじんでいるって、すごく地味で、楽だ。
そういう状態で触れるあれこれ、そこからの学びは、今までと違った味わいを持っていておもしろい。

そのおもしろみに少し気づいた1月は、あっという間だけどみっちり過ぎていきました。
2月はどんな月になるんだろう、言うとる間にもう4分の1過ぎとるやんけ、そんなことを思いながら茶をしばく日曜日です。


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