それでも尊敬すると言える関係。
両親と人生会議をしてみた。
結論は出なかった。
話を逸らされそうだったので、せっかくの機会なのでこちらも粘る。
父、母、僕3人に共通すること。介護と死について昔話をしてみることにした。
1.経験を振り返ってもらう。
死んだ時、いくら費用が必要なのか。
美味しいものと、めんどくさい話は一番最初にかたずけてしまうとよく言うが、お金に関して揉めるという話をよく聞く。
学生の時、6万円という話を飲みの席で聞いたことがある。
なんの根拠もないその金額に首をひねったまま話題は流れて場はお開きになったが、頭の片隅に残り続けていた。
ある日、その謎が解けた。
本当だった。
いや、正確に言えば合っているし、間違ってもいる。
その人の保有資産や考え方による。
亡くなったのは近くに住んでいた祖父の妹さん。
旦那さんと息子に先立たれ、他の親戚もおらず、しばらくは生活保護を受けて一人で暮らしていた。その後、動けなくなってからは病院から特養へ。
葬儀も簡易に行い火葬して都立霊園に埋葬した。
費用は6万円だった。
面会や手続きは息子さんの遺言にしたがって主にウチの父親が世話をした。
それがなければどうなっていたのだろう。
これがたとえ家族であっても、最後に一人だけ残ってしまい祖父の妹さんのようになる可能性が誰にでもある。
祖父の妹さんは家のつながりで病院で人生をまっとうすることができたが、社会とのつながりを絶っていたら孤独死みたいなこともあったかもしれない。
お金は大切だけれど、あちらの方には持っていけないし、なくてもあちら側には行ける。
大切なのはそれ以上に健康と何らかのつながりだなと。
親戚のつながりはなんだかんだで強い。やはり必要だなと3人で話をした。
◇
父親は祖父の面倒もみた。
家族揃って家で祖父をみて老衰で臨終まで過ごした。
ある日祖父は親戚夫婦との間にトラブルを起こし、夜中にうちにやってきた。
認知症が進み手に負えないと聞いていたが、銀行通帳を他人に渡そうとしたかと思うと、財産を守ると自らの部屋のドアにチェーンを巻き、外部からの問いかけに威嚇をしたそうだ。
そこまでいく過程は当然あるのだが、端的に言えば親戚夫婦が疲弊して面倒を見られなくなってしまった。そのため、より一層認知症が進み、手に負えない悪循環を生み出していたという。
うちに祖父がきた当初、親戚夫婦は会いにこなかった。
寿命間近になってうちに挨拶もなく姿を見せるようになって、あまりいい感情を持っていなかったが、威嚇したという理由を聞いて納得した。
葬儀で冷たい態度をとってしまったボクはどうしようもないバカだったなと。
今ではわだかまりはない。
感謝しているし仲良くさせてもらっている。
逆にそこまで頑張り背負いすぎた親戚夫婦に同情する。
もう少し親戚たちで分担することはできなかったのだろうか。
うちにやってきた祖父は昔の印象からは程遠く、堂々とした姿はなく何かに怯えていた。
一人で鏡に喋るまで認知症が進んだ老人になっていた。
また職人としての「強い」一面も時折見せ、自分の思い通り行かないとあらぶった言葉を浴びせたり、自分のだと主張してモノを奪ったりして母親を怖がらせた。間に入ったボクも怒鳴られ凄まれ睨み付けられて、ただただ言葉を失った。
祖父がうちに来て、たった1日の出来事だった。
ボクら家族は在宅介護を甘く見ていた。
偶然にもその翌日、ウチのマンションで入居人が退室して違う階の部屋が空いたので、そこを借りて祖父に生活してもらうようにした。
もともと祖父は親戚夫婦と同居だったが、二世帯住宅のような別の部屋で生活していた。
父はその良かったときの距離感が大事だと考えたからだ。
結果この作戦は成功した。
ヘルパーさんにお願いできる食事と入浴、後の部分を家族3人でカバーし適度な人間の接触を基本にした。
それでも認知症だからイレギュラーな行動は起きる。
朝仕事に行くと言えば母親は祖父が疲れるまで一緒に歩いた。
寂しいと言えば父親は布団を並べて夜中一緒に寝た。
目に見えて祖父は落ち着きを取り戻し、お金をどこにしまった?とか認知症特有の症状は消えなかったが、好戦的で暴力的な振る舞いはほぼなくなった。
カロリーが高く規則正しい食生活は白髪だらけだった頭に黒いものが見えるまで元気になり、デイサービスに通えるぐらいになっていた。
しかし元気になりすぎたのか勝手に徘徊して隣駅で保護されたりした。
警察に保護されている祖父を迎えに行くのはボクだったが、そのときいつも祖父が言うセリフは「現場に行こうとしたけど道に迷ってしまった」だった。
本当に仕事が好きな人だった。
祖父が家に来てから、父母ほどではないがボクも家族の一員として介護に参加した。学生でそれなりに時間があったボクは前出の捜索兼お迎えと食事の世話をするなど関わりができた。
祖父の例はラッキーだったと思う。
上の階の部屋がなければ、親戚夫婦のように疲弊して家庭が壊れてしまっていたかもしれない。
この後、僕らは前出の祖父の妹さんや母方の祖母も見送ることとなるのだが、この祖父の経験を生かして、本人が楽なように、そして家族が無理をしないように取り組んだ。
介護では無理をしない。
ヘルパーと家族で協力して立ち向かうしかない。
ヘルパーの人に言われた「家族だけでは介護はできません。我々ヘルパーはプロだからできるんです。」という言葉をよく覚えている。
2.順番が違うかもしれない。
ここまでは家族の誰かが介護や死亡してしまう話をしてきたが、
自分自身の経験からも考えてみる。
どこかで一番年下のボクが面倒みればいいという風に親も考えていたし、自分自身も考えていた。そんなある日ボクが倒れた。
数年前、原因不明の発熱が続き、通っていた総合病院でサジを投げられセカンドオピニオンを求めて専門病院に行き、即入院となった日。
診察してくれたお医者さんから、命にかかわる可能性があると言われた。
自分は若い。大丈夫だという気持ちがどこかにあった。
もし病気であっても治るはずだと。
元気な時に考えていた植物状態になったら管は抜いてくれ、臓器はドナーへみたいなことを考えていたが、病院のベッドの上では何も考えられなくなった。
考えなど状況によって変わる。
追い詰められた人間にはなおさら。
病気や事故によっては意識が朦朧することもあるだろうし、
これからどう生きるなんて考えられるはずがない。
事前に決めていても違うことを言い出さないという確証は持てない。
最終的な生き死にを決める前に、おそらくどういった状況でも財産の処分や銀行引き落とし等停止しなければならないことは、あらかじめ紙に書いておいた方がいいなと思った。
結局このときは精密検査の結果で難病でもなく、その専門病院の治療が功を奏して何の後遺症もなく現在に至っている。
両親のことは漠然と僕が面倒をみるもんだと考えていた。
もし独身の僕が先にいなくなったらどうするのだろう。
これにかんしては父と母で支え合うから、お前は気にするなと言われて終わった。
3.介護の中でよかったこと。
しかし人生会議は疲れた。とても気も体力も使う。
今回実際に話を聞いてみて言質をとるということではなくて、変化していく生活の中で何が幸せなのかを探ることなのかなと。
それなりの時間をかけて、人生会議みたいな機会はちょいちょい必要かもしれない。
今回の人生会議で思ったのは突然死よりも備えるべくはやはり介護。
あまりに負担が大きすぎて背負いきれないので、家族全員とヘルパーさんやお医者さんとタッグを組んで戦うことを覚悟しないといけない。
ただそんな中でも、よかったことは2つ。
最期まで世話ができたことと祖父を尊敬できたことだった。
ボクが幼い頃は仕事一辺倒の祖父でまともにしゃべったことがなかった。
休みの日も自分で建てた家の補修をしていたし、一緒に外食に出かけたこともないし、旅行に行ったこともない。
親戚の集まりでお正月にお年玉をもらったぐらいしか思い出せない。
祖父は牧場を持っていたり、お菓子屋さんをやったり、晩年は大工になって子供たちが住む家を建てていた。
明治生まれらしく、いろいろ手広くやっていたらしい。
認知が進んでボクのことはわからないようだったけれど、
仕事に対する想いや心得えみたいなものをよく話してくれた。
現場の若い衆にもこんな感じだったのかもしれない。
本当か嘘かわからない話もあったが、ちょっと問題になりそうなそのダイナミックな話は面白かったし、祖父の偉大さを言葉の端々から感じていた。
今でも人心把握術や現場の回し方の話はよく覚えていて、それが役に立ったとは言えないが頭の中のどこかで祖父ならどうしたかな?などど考えている。
4.人間、最期は素顔になる。
また、これから老いていくボクにとって勉強になったことは、認知症になっても新たな顔が現れるわけではないということ。
「素」のその人が現れるだけということだ。
酒もタバコも賭け事もせず仕事が趣味のような祖父だからこれぐらいで済んだと今では思っている。
認知症になったからすべてがおかしくなるわけではない。
昔の記憶は残っているし、会話もできる。
ただ、その人の本当の「素」の顔みたいなものがでてしまう。
気に入らなかったら強い言葉を吐くのも祖父の本来の姿だし、優しく接するのも祖父の素顔だろう。
人によるし。状況による。
だからできるだけ他人に対しての接し方はいい人でいたいと思う。
祖父のようにいい人の部分が大きければ、素顔の部分で反映されるはずだから。
僕自身が認知症になったら忘れてしまうかもしれないが、生きていく前段階として、もう少しだけ安心ができると思う。
尊敬する祖父はそんなことを考える暇もなく働いて、
家族を守った。そして、優しい人だったんだな。
やっぱり凄い人だ。
最後までお読みいただきありがとうございました。
つたない文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。 もっと上手に書けるよう精進します。