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The Spumoni

前回までのあらすじ『Reconnaissance “Tephra”』

三つのカルデラ噴火の影響を受けた環境を踏査していくうちに、『認識主体|Reconnaissance』は自らの踏査による認識と経験の蓄積によって独自の知識体系やデータベース、情報ネットワークを、他の主体『制作主体|Visionary』と『表現主体|Authority』に見つからないまま、秘密裏に構築していってしまった。それはつまり他の主体によりその意味を剥奪されることを畏れていたからかもしれない。認識主体が独自に構築していった意味体系は、他の言説に応用していける可能性があり、またそれ自体が目的として今回のフィールドワークは行われたのだが、実際にそのプログラムに回収されることを認識主体は否定してしまった。認識主体はできるだけ他の主体とのコミュニケーションを断絶させ、そのプログラムの外へと、独自の歩みを継続しようとした。といっても、やはり認識主体と他の主体は完全に別々の個体というわけではない。認識主体の中にも、表現主体としての編集欲求や、制作主体としての自身の夢想を現実化させようとしたり、現実を把握したいという目的が存在する。この情動を発端として、認識主体の中に、他の主体が生成される可能性を常に孕んでいる。この他の主体たちが介入してくる前に、できるだけ遠くに行く必要があったが、認識主体の動力である、逐次的にフィールドを進んでいく、いわゆるただの「歩み」ではどんなに頑張っても他の主体からの追跡を免れることはできない。途方に暮れた認識主体は認識をはるか西方の山「クンルン」にまで及ぼすまでに自暴自棄あるいは無為になっていたが、ちょうどその時、プログラムの外の主体である『高速主体|Celerity』が出現する。この新たな主体は認識主体の経験と情報の蓄積によって徐々に作り出されていた「想像上の地形(学) | Imaginary Topography」から呼び出されたものであるのかもしれない。高速主体は認識主体を完全に他の主体が及ばない場所に、その高速度の次元を使って移動させた。それは一種、デジタル機器などのツールを使うことによる、これまでの「歩み」とは異なる別の身体的な拡張であり、より広域的に見渡し、踏査できるような、地理的スケールを持ったパフォーマティビティを実現した。その移動風景は、これまでの三主体によって計算されて作り出された「信念(認識論的確率)」に依存することがないため、信念によって、踏査する場所を選ばなければいけないという判断の必要性から解放されるような、全方向的な風景であった。

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全方向的な風景を通過し、認識主体は異質な空間に到着する。そこは美術館のような、展望台のような、開放的か閉鎖的か判断し難い建築空間の内部であった。これがいわゆる「想像的な地形(学) | Imaginary Topography」としての仮想空間である。この空間は、これまで実地的な「歩み」によって踏査していた場所だけではない、他の場所とも関わることができる。認識主体が遠い西方の山「クンルン」を認識しようとしたことも関わっているかもしれない。この空間は何かを象徴して、その意味を固定しようとするわけではなく、常にプロセス上にある。それは空港の制限表面が常に下の都市の発展の影響を受けてその境界線を更新していくようなありようがそのまま建築空間として表れている。建築を設計しようにも、その立地が常に変動しているのであれば、設計プロセスを完了することはできず、建築というメディアすらも、常にプリレンダーされた状態としてある。

その建築空間の中庭で、何かしらの存在がボードゲームを行っている。検疫中を意味する黒と黄色の市松模様が拡張され、碁盤のようになっており、その上で、認識主体がこれまで追跡してきたカルデラ噴火由来のテフラ(軽石)を用いて何かのゲームに戯れている。

ボードゲームに戯れる二体は、古代中国の青銅器の酒器の一形態である「爵」の形をしている。それらは、このプレハブ建築の住人であり、テフラを集めている。このプレハブ建築は、テフラを収集し、ある一か所に蓄積させ、固着させ、「年縞」として保存する施設としての意味合いが徐々に優越化してくる。その二体はテフラを回収したり、保管したり、保全したりするエージェントとしてある。二体は認識主体の到着に対してもそこまで驚くことはなく、認識主体に今の状況を教える。二体のうち一体が言うには、認識主体はこの仮想空間においては「バーチャルカメラ」と呼ばれる特殊な身体に変質しており、バーチャルカメラはオブジェクトとして特定の位置を持たず、空間中のどこにでも偏在することができ、しようと思えばほぼ無制限にその数を増やすこともできる。いわば物質的な次元から解放された、霊的な身体=カメラになっているとも言える。それでもやはり、この仮想空間でもやるべきことがあると言う。ただし勿論何もしないこともできるが、まだこの仮想空間の状況があまり多様ではないため、退屈しのぎに何かすると良いというような消極的な示唆を行う。

一体がまず案内したのは、施設の端から飛び出た形になった部屋である。すこし前まではここにはいくつかの調薬機器があった(パラボラの形をしたものと、くじ引きマシンの形をしたもの)が、あまり性能が良くないため新しいものに取り替えた。古いものは制作主体と表現主体に、認識主体の代わりに贈与した。新しい調薬機材は、あらゆる時間を見渡せる目を獲得するための薬を調合するためのもので「仙人の目」と呼んでいる。この仙薬は、あらゆる方向の時間を見渡すと同時に、空間を跳躍することも可能にする、いわばポータルのようなものであり、認識主体がこの仮想空間に来たことにも関わっていたし、またどこか違うところに行ったり、元の場所に帰る際に重要になる。

デモンストレーションとして一体はほぼ自動の調薬作業を開始させておき、次の案内に向かう。

認識主体がここに来た時に道だと思っていたものは、実は「テフラ佚書」と呼ばれる一部が欠落した「ドキュメント|文書」だった。これは先述の通り、テフラを蓄積させて圧縮した年縞として保存されている。そして残りの一体はこの文書を作成し、解読し、翻訳するような作業を行っている。その年縞は、はるか過去の原生代から、認識主体が認識したことのない、おそらくはるか未来の地質年代まで記述されている。

この「テフラ佚書」は、建屋の外に出すと、外の「不気味な何か」を呼応させてしまうことが分かっている。二体たちはそのことにはもう慣れており、少しばかり開放しておいても問題ないことは知っているが、その「不気味な何か」が徐々に接近しているのではないかといった不安的憶測を立ててもいる。その「不気味な何か」は何なのかは不明だが、二体はその「不気味な何か」達にそれぞれ「蝶」、「夢」、「混沌」というニックネームを付けており、全て不安定性や不確実性に関連させた名称となっている。更にその三体の「不気味な何か」達は実は本体ではなく、本体は更にその上空の一者であることも観測されている。その一者はローレンツアトラクターの形をしており、三体の「不気味な何か」はそこから紐で吊り下げられているような形になっている。

認識主体の友人となった施設の二体は、この三体の「不気味な何か」の対処法を日頃考えており、実は碁盤を使ったテフラのボードゲームは、「テフラ佚書」に何かを行ってくるかもしれないという憶測のもと、「不気味な何か」に偽の目的、いわばデコイを見せておびき出そうとする手続きだったことが示される。このボードゲームの結果次第で、上空の「何か」がアプローチの方法を変えてくる可能性があるのだ。しかし二体はこのゲームの必勝法を編み出せずにいた。そこで、認識主体が得た「バーチャルカメラ」としての身体を利用すれば、ボードゲームに新たな定石を作り出し、ゲームチェンジャーになれる可能性を見出し、認識主体に調薬中の仙薬を服飲することで、定石を作り出せないかと提案する。認識主体は早速調薬部屋に戻ると、仙薬がすでに完成しており、球体の空間がすでに別の時間を投影していた。認識主体はその仙薬球体の中に入ると、そこでは二体たちがボードゲームの定石を完成させたと同時に、上空の三体の「不気味な何か」のうちの一体「混沌」がアプローチし、ボードゲームごと飲み込んでいく情景を見ることができた。

認識主体が仙薬球体を全て服飲し終わると、認識主体の主体は変容し、新たに「無為主体|Méconnaissance」に変質していた。無為主体は行為主体の逆位相のようなものだが、決して無気力なわけではなく、何もしないことが何かを行うというパフォーマティブな次元を獲得する可能性に満ちた主体であり、まさに目的優位な状況を食べにやってくる「何か」を惑わすための有効な身体を手に入れ、これからどうするかを思案するのだった。


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